• 目からウロコが落ちたときこそ

    困った。前々から書きたかった題材で、書く状況も今が最適なのだが、肝心の「目からウロコが落ちた感覚」が思い出せない。しばらく本棚を見て、目からウロコが落ちる体験をした本を探してみたがわからない。ただ、そのような経験が皆無だったとも言い難い。仕方がないので、中学生のときBOØWY(ボウイ)のB・BLUE(確か)を聴いて「自分達の時代の音楽が来た!」と興奮した感覚や、135(イチサンゴ、バンド)の我愛你(ウォーアイニー)を聴いて「すごい!特に聴いたことのないサウンドがすごい!」と夜聴いて盛り上った感覚を土台に代替しようかと思ったのですが、やっぱり少し違う気がします。

    それで今、この言葉の起源を調べてみたのですが、この言葉はなんと聖書由来だったのですね。新約聖書の使徒言行録(使徒行伝)第9章にその話がある。ということは世界で通じそうなたとえのような気がします。たとえば、DMM英会話によると the scales fall from one’s eyes という表現がある、とのことです。また、ENGLISH JOURNALでは、英語では悪いことにも使うといった指摘がされています。

    その第9章では、主の弟子を迫害していたサウロ(パウロ)が、ある日天からの光とともにイエスの声を聴き目が見えなくなったものの、アナニヤの祈りによって視力を取り戻し、数日後にイエスの教えに従うことを宣言したことが語られています。細かいことですが、私としてはサウロの目からウロコが、いや、正確に書くなら「ウロコのようなもの」が落ちる描写の前に、サウロはイエスが神の子であることを理解したことが描かれていないことが注意すべき点だと感じました。つまり、文章上はウロコ(のようなもの、以下略)が落ちた後にサウロが理解したと読み取れるのが、今の日本での一般的な用法、即ち「理解したからウロコが落ちた」と違っていて興味深く感じました。

    なお、理解と目が見えるか見えないかを結び付けた表現も覚えておきたいところで、これを逆手にとったのがギリシャ悲劇の「オイディプス王」です。目が見えても真実はわからない、目が見えなくても真実がわかるといった話で、紀元前427年頃に書かれたと言われています。


    さて、目からウロコが落ちたと感じたのはどんな時か。おそらく、何らかの情報によって自分の考えが改まったときだと思います。その情報は文章によるものかもしれないし、話し言葉によるものかもしれない。目から入った情報に限らないことは、その「目からウロコが落ちた感覚」は、眼球の表面の感触というより、視覚を含めた脳の感覚によるところが大きい気がします。

    ただ、問題はその情報を受け取ったとき脳にどんな感覚が生じようと、それは正解や真実を示すものではないということです。むしろ「意表を突かれたものの納得した」といった反発と同意の落差に対して脳が「困難に対する成功体験」にも似た作用をしたのではないか。それは、思考を中断して、感覚が論理や理性を抑えつけたような瞬間のような気がします。

    そして、脳はおそらく滅多に体感しない刺激に弱い。その刺激を新鮮なものと肯定的に捉えてしまう。その結果、感情が釣られそのような感覚をもたらした情報に同意しやすくなってしまうのではないか、そんな気すらしてきます。これは、他者による情報のみならず、自分で考えて「閃いた!」と思ったときのも同様でしょう。

    また、これの弱いバージョンで「面白く感じた場合」も似た面があるのではないかと考えています。ある意見が聴き手を面白がらせるやり方で紹介される。その時聴き手が面白く、快く感じた方がその意見を受け入れやすくなる、そんなイメージがある。もしかしたら脳には、快くなったときに聴いた意見を、自分を快くしたが故に正しい、真実であると判定する傾向がいくらかはあるのかもしれない。もちろんこの場合もその快さの程度が正しさと合致しているかどうかは別であり、もし面白かった分それに伴う意見が受け入れられる傾向が見られるのなら、これもまた感覚が理性などを抑えつけた例だといえます。

    ここで思い出してほしいのが普段の飲食、特にお菓子や飲み物などの嗜好品を摂ったときのことで、甘い物を食べたときの甘ったるい感覚が頭に広がる感じや、辛いのものを食べたときの頭の熱さ、コーヒーでカフェインを摂ったときの頭にツンーと来る感触など、その程度でも脳の感覚は結構変わってしまうのですよね。

    それを考えると、何か食べた程度で変わってしまうような性質を持つ脳の感覚を真実の判定に使うべきではない、そうとしか言いようがないです。論理や理性より感覚による判断が重視される状況は宗教ぐらいしかないのではないか、とすら思えてきます(ただし、宗教の人知を超えた部分の真実性は誰も証明できない)。ただ、感覚によらず判断するのは難しい。特に即答を求められる場面ではそうだと思います。そして、新鮮な刺激や面白さをもたらしたから誤りだ、ともいえない。どうすればいいのか。

    それにはまず、自分の脳の快・不快などの感情によって引き起こされる感覚の程度や変化を客観的に捉えられるようにすることではないかと考えています。今、自分は普段より熱くなっているな、今日はなんだかイライラしてるな、紅茶を飲んだせいか気分が落ち着いてきたな、というように。もちろん四六時中そうである必要はないです。己を客観的に見るべき場面で使えれば十分ですので。

    そして、繰り返しになりますが、意見を判断する際には、その自覚した快・不快などの感覚を切り離すことを心掛けることでしょう。そう、目にウロコが入ったときこそ、その感覚に浸ることなく「危うい」と警戒するべきなのです。そして、快・不快に限らず感情は、特に強い感情は自分でもそう簡単に変えたり抑えたりすることは困難なので、その感覚が去って頭が冷めた後でじっくり考えること、それをよく心得ておいていただければと思うのです。

    先に宗教の例をあげましたが、もしかしたら、それ以外にも論理や理性より感覚が重視される状況もあるのかもしれない。その場合でも、できるだけ論理や理性と感覚のどちらを優先すべきか一呼吸置いて考えてから判断するべきであり、感覚にたやすく呑まれて論理を打ち切り理性を捨てて思考停止するのは、所詮「わかったつもり」の域を出ないので避けるべきであると思う次第です。
     
     
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  • 参政党が好きな人におすすめの本

    本棚にあったので久しぶりに読んだのですが、本当におすすめできる本でした。

    山中恒 著「子どもたちの太平洋戦争 -国民学校の時代-」(岩波新書)


    というのも、今回の選挙で参政党に一票入れたい人はご存知だと思いますが、同党の新日本憲法(構想案)には以下のような文言があるのですね。
     
    ——引用開始——
     
    前文より
    (略)
    天皇は、いにしえより国をしらすこと悠久であり、国民を慈しみ、その安寧と幸せを祈り、国民もまた天皇を敬慕し、国全体が家族のように助け合って暮らす。(略)これが今も続く日本の國體である。
    (以下略、「國體」は「国体」の旧字体による表現)

    第一章 天皇

    (天皇)
    第一条 日本は、天皇のしらす(2)君民一体(3)の国家である。
    2 天皇は、国の伝統の祭祀を主宰(4)し、国民を統合する。
    3 天皇は、国民の幸せを祈る神聖な存在(5)として侵してはならない。

    (2)しらすとは、国民の実情を広く知って日本を治める意味の古語である。
    (3)君民一体とは、天皇と国民が一体となって国を治める意味をいう。
    (4)大嘗祭、新嘗祭などは国の公式の祭祀となる。
    (5)神聖は君主の属性でもあり、皇祖皇宗の神霊と一体として詔勅を発し、祭祀を主宰する事実による。

    ——引用終了——

    ここで「国民もまた天皇を敬慕し、」と義務のように書かれるとちょっと待てと思うわけです。そして、憲法に書いてあれば何らかの形で法律に反映されるはずです。敬慕の義務化が。現行の日本国憲法の前文が法律に反映されていなくても今後はそうとも限らない。どこかで前文を法案に反映しないことを明文化するまでは油断ならない、というのが私の考えです。

    それに、国家権力の指示による敬慕は真に敬慕といえるのか、といった問いもあります。感情は指示で変えられるものなのか。指示で変えられるのは行動のみであり、それは所詮「敬慕するふり」に過ぎないのではないか。仮に敬慕の言葉を強制的に連呼させることで心が変えられるとしても、その場合国民の精神にふさわしい健全さは保たれているのか。敬慕しないことで不利益にならなくても敬う情が湧いてくること、それこそが敬慕と呼べるのではないか。

    第一条と2については、どう考えても天皇をそれ以外の国民の上に置く考え方で溢れています。「しらす(日本を治める)」「君民」「国民を統合する」。私としては、ここまで自分が誰かよりも下の存在だとはっきり書かれるのは抵抗があります。3も同様で、「神聖」「侵してはならない」と特別な存在に祭り上げているのですが、ここで自分たちが暗に「神聖でも侵してはならない存在でもない」とされていることに理不尽と不条理と怒りを感じられるかが今後の大きな岐路になると思います。

    私は、これら条文の先には天皇の名における非常に窮屈な世の中が待っていると考えてます。常日頃から皇族に気を遣い、行動にも気を配らなければならない世の中が。

    ただ、具体的に何が起こるのか想像するのは難しいと思います。急にそんなこと言われても、というのが正直なところでしょう。そこで比較的近い歴史から学ぼう、というのがこの本を取り上げた理由です。

    本書のP18、19に、1940年(昭和15年)以降の日本で起きた、今では考えられない出来事が紹介されています。

    ——引用開始——

    天皇に関して、この作文のなかに、ラジオの実況放送のことが出てくるが、当時は、天皇の声は電波にのせることが許されていなかったのである。ラジオ放送を聴くものがすべて、直立不動の姿勢をとっているとは限らない、病床で寝ながら、それを聴くものもいるであろう、そのようなことがあっては、天皇陛下に対し奉(たてまつ)りまことに恐れ多いことであるからというので、天皇の声は放送されなかった。(P18)

    (略)陸軍特別大演習というのがあり、天皇が私たちの町へ立ち寄ることになった。駅の近辺の家で、二階に寝ていた病人は警察官立ち会いのもとに、みんな一階へ移された。天皇より高い位置で寝そべっていることは、天皇に対して恐れ多いというのであった。(P18)

    (略)ニュース映画に天皇や皇族が登場する場合、予め字幕で「脱帽」と出た。観客はこれを見たら、単に脱帽するばかりではなく、姿勢を正して画面を拝観せねばならなかった。その「脱帽」の字幕を見て「やれやれ!」といったのを特高警察に聴かれて検挙され、不敬罪で起訴された人たちのことなどが『特高月報』の〈不敬言辞〉の欄に、うんざりするほど記録されている。(P18、19)

    ——引用終了——

    また、P59には天皇機関説を唱えた憲法学者かつ貴族院議員の美濃部達吉が議員を辞任させられた経緯が書かれています。天皇機関説とは、コトバンクの表記を元にまとめると「主権は国家にあるので、天皇は法人としての国家の最高機関だが主権者ではない」といった説で、天皇を学問的に議論の対象にしただけで多大な不利益を受けた例もあったわけです。

    つまり、たった一人を特別扱いすることを決めただけであっても、それが突き詰められることでものすごく過ごしづらい世の中になるかもしれない。それは、通ってほしくない法案を止めるのがいかに困難か、不可能に近いかを考えていただければ思い当たることもあるのではないかと思います。

    なお、上記の憲法案のような天皇崇拝の空気が広まれば、その中から今よりも更に天皇を敬うが故に堅苦しい状況を望み、実践に動く人も続々出て来るのではないか、そんな危惧もしています。それなら、そのような方向に行かないように努めたほうがいいのではないかと思うのです。日本国憲法第十二条の「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」にはそのような意味合いも込められていると考えています。

    また、本書には当時の子どもたちの作文も少し掲載されています。その中で、「恐らく、かなりの量の教師の添削があった」と述べられているものの、世界観が日本神話に染まった子どもの作文が載せられていて(P22-25)、途中で「思うと紀元二千六百年は、神武天皇様が国をおはじめになった昔を目の前に見る様なわけで深く尊く感じられます。」という表現があって、こういう考え方しか許されなかった子どもが大半だとしたら、本当にみんな心が狭苦しかったのではないかと思うわけです。

    更に、授業前の唱和と暗記が(尋常小学校)三年生のころから強制された「天壌無窮の神勅(てんじょうむきゅうのしんちょく)」の説明もあります(P29)。神勅自体の内容は以下の通りです。

    「豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の国は、是れ吾(あ)が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。宜しく爾皇孫就(いましすめみまゆ)きて治(しら)せ。行矣(さきくませ)。宝祚(あまつひつぎ)の隆(さかえ)まさんこと、当(まさ)に天壌(あめつち)と窮(きわま)りなかるべし」

    そして、〈国体〉とはこの神勅による日本が万世一系の天皇に統治されることの決定を受けた政治体制であり、この神勅は日本人であれば信じなければならないとされたので、大人もまた心が狭苦しかった部分があったのではないかと思うのです。

    ここで、宗教という「現実と言い張るよくできたフィクション」の持つ、「心をつらい現世から逃して架空の世界にしばらく置くことで充実を図る役割」に着目する必要があります。改めて書くなら、崇拝の対象に宗教性があるとこの宗教の世界まで圧迫されて心の逃げ場がなくなる、そんな気がします。そしてそれは、宗教的世界、つまり心も支配されることになることをひしひしと感じます。たった一人を特別に扱うことで、やがては行動も心も支配されかねない。その危険性を、一旦そうなったら元に戻すことは相当困難だと思われるのとともに、重々感じていただければと願うばかりです。

    本書の主体は題名の通り、太平洋戦争の時代の子どもたちの生活を描いたものです。そして、そのそこかしこに天皇の影響が表出する。天皇陛下に忠義を尽くすことを作文に書いたり(P8)、口頭試問で礼拝の仕方や、君が代を歌っている時、聞いている時の気持などを問われたりする(P166)。絶対に逆らえない存在を設けてその下に自分を置くことが幸せを招くとは思えません。

    私としては、今後有権者が舵取りを誤ったら再度そのような世の中になっても不思議ではないと考えています。客観的には今の状態から近いうちにそうなるとは思えないし、同様にそう思っている人が大半でしょう。それでも、そこに安住して警句を発するための努力を怠(おこた)れば、大袈裟でいい気分になれる意見に引きずられ、意志が強くて声の大きい人たちが望むような世の中になってしまう気がしてなりません。

    それを防ぐためには信頼性のある情報を見極めて学び続けるしかないのですが、それが難しい日常も存在する。となると、無知の知を徹底するしかないのではないかと思うわけです。自分が他人に説明できるほど詳しくなければ、賛同するのはしばらく保留する。聴いていて気持ちが良くなる意見が、将来的に正解とは限らないことを覚えておいていただければと思います。

    同じ意味合いで、この記事を紹介しておきます。

    選挙の前にたしかめて 生成AIの選挙動画に注意! NHK ONE 2026年1月30日

    あと、この本のいいところは何と言っても読みやすいことです。子どもの視点を織り交ぜながら書かれていることもあり手軽に読めるので、通勤時、特に帰宅時のように難しいことを考えたくないときでも読み進めることができるのは、大きな利点だと思います。岩波書店のサイトでは品切れで電子書籍もないようなので(2026年2月1日現在)、上のAmazonの他に中古で入手できるリンクを以下に貼っておきます。この類の本に目を通したことがない人ほど新しい発見が待っているはずなので、是非この機会に一歩踏み込んでいただければと思います。

    ブックオフオンライン
    ネットオフ
    日本の古本屋※
    ヤフーオークション※
    メルカリ※
    ※:書名が類似した別の本もあるので注意
     
     
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  • 占いの効用について

    最近は朝の民放のバラエティーな感じの情報番組も雑誌も見てないのでわからないが、占いは今どうなっているのだろうか。今年はおみくじも引いてないこともあって、長いこと占いが縁遠くなってしまった。娯楽のための雑誌や番組はいいが、通常の報道も行うような情報番組では占いは場違いな気がする。しかし、占いならではの効用もおそらくある。それを幾つか思いついたのでここに記すことにした。

    言うまでもなく占いとは今日これからを含めた未来をより良く過ごすための行動などを示したものだが、その内容を大まかに言えば提案と警句だろう。運が向く行き先や行動、ラッキーカラーなどの助言が提案であり、避けた方がいい行為などについて述べたものが警句である。あとは、相性判断の類だろうか。それらの占いの根拠は、誕生日や血液型などの偶然による変えがたい属性によるものが主だろう。

    提案については、「期待」がキーワードだ。その提案は比較的簡単に達成できるはずで、日々懸命に働いて月収50万を越えれば幸せ、といった内容ではないはずだ。つまり、少ない労力で効果を得られることを示唆している。それを信じ、期待することで脳が活性化して頭がよく働くようになり気持ちも積極的になる、この面が大きいのではないだろうか。その結果、仕事でいい発想が浮かんだり、逆にミスに気付いたり、視野が広くなって普段なら見過ごしそうな路上の落とし物が目に入ったりするかもしれない。これは相性判断でも同じことがいえる。

    警句については、「慎重」がキーワードとなる。判断のために思考することで迂闊(うかつ)な行動が減り、危機を回避できるかもしれない。ただ、ここで気を付けたいことがある。行動の否定だ。ある行為については注意しよう、ぐらいなら先の効果が働くかもしれないが、その行為をするべきではない、という言葉は可能性を閉ざすだけなので聞き入れる価値が感じられない。特に相性判断にその危険性を感じる。人付き合いの相性は偶然による属性よりも実際の言動のやり取りによるところが大きいからだ。その言動はその人の資質と育ってきた環境の影響なので、そこに占いの根拠が介入できる余地はほとんどないはずである。

    さて、ここでもう一つ書いておきたいことがある。占いの当たり外れについてだ。占いが当たったか外れたか、言い換えれば幸運が訪れたか、不幸に遭ったかの判断は、本人の主観、判断によるところがほとんどだろう。そこそこ客が入るカフェに行って、お気に入りの席が空いていたとする。人によってはそれが普通かもしれないし、あるいは運が良かった、占いが当たったと感じるかもしれない。また、いつも買っている商品が品切れだったとする。こちらも、よくあることだと捉える人もいれば、運が悪かった、占いが当たってしまったと思うかもしれない。となると、占いの当たり外れは、当人が占いを信じるかどうか、都合よく解釈するかどうかによるところが大きい。

    ただ、占いの根拠は先に述べたように偶然による変えがたい属性によるものが主なので、真っ当なものとは言い難い。なので、それらの根拠を本当に信じ込む人はあまり居ないと思う。よって、次のような言い方をせざるを得ない。占いを信じる人にとっては、占いによる効用によってその分幸せになった。このことは、占いの概念がない世界よりは良かったのではないか、と。

    占いによって幸せになるために無理して占いの根拠を信じようとするのは感心しない。落ち着いて考えてみて、きちんと相手にするだけの思想でなければ相手にしないほうがいい。無理をして信じようとしても心に負担がかかって辛くなるだけだ。その辛さは、おそらく先に述べた占いによる効用を上回ることだろう。無理して信じるのは常時でかつ精神の根幹に関わることだが、占いの効用が現れる頻度はそんなに多くなく、その幸運の程度も所詮は偶然で少しいいことがあった、ぐらいのものではないだろうか。それが努力による幸運より確かなものとは思えない。

    最後に、繰り返しになるが警句の範疇(はんちゅう)を越えた否定的な言辞、選択肢を狭める文言にはくれぐれも気を付けたい。これだけは、占いを信じることが幸せから遠ざかる負の要素だろう。どうしても気になるのなら、占いの文句を抜きにしてじっくり考えることだ。何事も、最善を尽くして取り組んだほうが、仮に上手くいかなかったとしても後悔は少ないはずだからだ。

    とりあえずこの記事は以上です。何かあったら付け足します。
     
     
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  • 宗教に織り込まれた信仰心を加速するシステムについて

    それにしても宗教はすごい。おそらく人類にとって最も興味を惹き付けてきた存在だろう。宗教に基づく熱意は、日常の儀礼や非日常の祝祭の行事など様々な形で、時に静かに、時に賑やかに現れている。日曜日の教会での礼拝、バグダッドへの聖地巡礼、除夜の鐘、初詣など枚挙に暇(いとま)がない。そして、その影響力によって多くの人が救われ、多くの人が殺された。十字軍然り、イスラム国(イスラミック・ステート(IS・ISIL)、ダーイシュとも)然りである。

    宗教がここまで人々を動かしたのは、何と言っても「死後の世界における安全・安心の確約」の概念を発明したのが大きい。ほぼそうとしか思えない。よくぞ「死後の世界」などという、途方もない設定を考え出したものだ。この前提となる「(肉体から分離した)魂」と併せて考えると、人間の想像力はあまりにも卓越していることを感じずにはいられない。これは死後の世界の亜種ともいえる「輪廻転生」もそうで、死後、何かに生まれ変わるだなんて、そんな続きが気になる設定を創造したことに深く感心する。おそらく、死後の他者や自分の意識、心がどこかにあって欲しいという願望とともに考え抜いた結果なのだろう。死者の心が自分の感知できない、そして自分の望む所へ……例えば、親切だった人は安らかな所へ、危害を加えた人はその罰を受ける所へ向かってほしいと思えば、それが天国、あるいは地獄になる。輪廻転生には、身近な生き物に宿ってでもそばにいて欲しいといった要素も入っているように感じられる。睡眠時の夢や臨死体験での幻覚がその想像に作用した可能性もあるが、今となっては、その過程を知る由もない。

    これらの「死後の世界の安全・安心の確約」が宗教たるものの太い中心軸であり、人間にとっての最大の関心事であろう。宗教の対象として他に「現世利益」があるが、これは幾分求心力が弱く感じられる。ここに宗教についての一つの鍵があるように思える。大抵の人にとっては現世利益より死後の世界の安心・安全のほうが重大だが、確かに存在して叶う可能性が高いことよりも、存在が未確定なものに関することを願うこと……「信じる」ことに対して熱心であることに、重大性に収まらない理由があるような気がしてならない。

    それを一言でいうなら、人間には、途方もないことを、そしてそれを未確定なまま信じるほうが気持ち良く感じる性質が備わっているのではないだろうか。

    自分自身に関して言うなら、フェルマーの最終定理に対してある種のロマンを感じた覚えがある。もちろん証明される前の話である。x^n+y^n=z^n(nは自然数でn≧3)を満たす整数は存在しない。ワイルズによる論文の正しさが認定されたのは1995年であるが(*1)、それまでは「そうなのかもしれないが、本当にそうなのか」と、数の世界の不思議さと遠大さを想い、証明に関するニュースを聞く度に期待と不安が入り混じった気分になった。未確定だからこそ、その可能性を信じることが不安を打ち消すほどの期待の強さ、すなわち気持ち良さにつながり、その対象が大きいほどその度合いが強まる、あの時のことを思うとそう考えるのが最も適切なように思える。

    その概念的な分野における、大きな対象の究極が神などの超越的な存在であり、そして「死後の世界」なのだろう。設定が大きく、遠くなるほど存在に対する期待が膨らみ、そして証明までの距離は遠くなる。つまり、信者にとってはいつまでも、それこそ世代を超えても対象の存在が未確定のままで信じることができる。また、その距離の遠さは「強く」信じることを要請されているといえる。強く信じなければ、その対象を心に重ね合わせられないからだ。加えて、共同体の一員でなければ生きられなかった時代であれば周囲の宗教に合わせるのはそれこそ必然であり、住む所や職業の選択肢などが少ないことが更に信仰心を強く保つことに作用したものと思われる。

    そうして信じている間、祈っている間は夢見心地なのと近い感覚にある気がする。現実を離れ、意識をそこまで没入するからこそ対象と深く結びついて満足感、充足感が得られる。これをある種の快感に分類しても、そう大きくずれてはいないはずだ。あるいは、こうも考える。人類が、信じたり祈ったり願ったりする度にひどい頭痛がするような体質であれば、宗教は身近な存在になり得たであろうか。何事も、強く信じる行為自体にはある程度の心地良さが入り混じる。その心地良さ自体は、マッサージを受けたときに得られる体感によるものと本質的には変わりないのではないか。しかし、願うにせよ祈るにせよ信じるにせよ、自分の意思によって引き起こした点において、その感覚が体感によるものと類似しているという意識は生じないまま、満足感、充足感、そして達成感が残る。信じるということを考えると、そう思えてならない。

    達成感については、重要な要素のように思えるのでもう少し考えてみる。日々の日課として、お祈りなどの宗教的行為を行ったとする。仕事のように目に見える成果が求められるわけではないので、時間さえあれば可能な、比較的簡単に成し得る行為だといえる。そして、お祈りの最中の満足感、充足感にその終了時の達成感が加わる。小さいながらも、成功体験ともいえるだろう。その行為を繰り返すことでどうなるか。

    「報酬系」という言葉がある。脳の働きについての表現で、報酬とは脳の快感のことであり、食事や称賛の他に達成感によるものも含まれる。報酬系とは、報酬とそれに関連する行動の変化のことで、刺激とそこから得られる情動との連合を学習し、予測に基づいて適切な(例・報酬が最大になるような)行動を選択すると言われている。その予測の結果生じたやる気も報酬系の行動の変化のうちに含まれる。また、記憶とも密接に関与し、受けた感覚情報を過去のものと参照して評価することにも関わってくる。そして、予想より良い結果を得られた場合は報酬を得るための脳の働きが強化され、逆に得られなかった場合はその働きが弱くなる、予測誤差仮説も提唱されている(*2)。

    もしかしたら、恒常的にかつ真摯に超越的な存在に向き合うことや、生きている間にはたどり着けない遠い世界に思いを馳せることによって、些細な達成感であっても幾ばくかは脳内のシステムが信仰心の強化に寄与することが生じているのかもしれない。日頃の習性による心情の変化が脳の作用としてどの程度説明され得るのか、もう少し詳細な情報がほしいところではある。

    信仰心、というか実在を信じる心情についてもう少し書いておきたい。超越的な存在や死後の世界の知識を得ても、始めからそれを丸々信じる人は少ないと思う。しかし、人間は意志によって何らかの行為を行う一方で、行為を行うことによって意志(心)が追随し形成される、そんな側面もあるように思える。つらいときでも作り笑いをすることで、ひと時でも心がほぐれる、そんなことはないだろうか。簡単な宗教儀式、例えば鳥居の前で礼をするとかでも、もしかしたらそこに神が居るかもしれない、少しだけ、そんな気分にはなる。そのような行為を繰り返すことで、実在感が強くなる、そんな作用もあるのかもしれない。そしてそれは、神が誰でもわかるように観測されないからこそ、超越的な存在を実在するように思える特別な感覚を持つ自分は特別な存在である、という感情、ある種の快感もまた実在を信じる心情を補強し、超越的な存在や死後の世界が更に確固たるものに思えてくる。そんな思考が芽生え、定着してもそう不自然だとは思えない。

    少し話をまとめてみる。宗教は「死後の世界」や「超越的な存在」といった強く興味を惹く概念を創造した。それらは人々の希望であると同時に、証明できない性質を持ち合わせている。宗教的行為は人を心地良くさせ、更に、証明できない性質であるが故に対象に対する強い信仰心が求められ、それに応えるように強い信仰心が形成される。宗教的行為の反復ならびに設定を肯定する宗教的行為自体に、信仰心が強化される性質がある可能性もある。

    これらの点において、考えておきたいことがある。人類は、今後宗教とどう付き合うか。冒頭で述べたように、宗教によって多くの人が殺されている。これを抑止するためにはどうすればいいか。人類が、永遠の死後の世界を夢見るという無上の愉しみを、希望を手放せるわけがない。しかし、何らかの節度を設け、心掛けることで攻撃的な精神を緩和することはできないものかと思う。二つ考えてみた。

    一つは、周囲に対する感謝の念の強調である。「上に祈る前に、周りにできるだけの感謝を」。どう考えてもこの世界で生きていくためには、一人では生きられない以上、存在するかどうか確定できない何かより現実に存在している人間を意識したほうがいい。そして、周囲、つまり対象となる自分に関わる人間をより多く想像することを心掛けた上でこの感謝を続けることで、次第にその人間の範囲が直接的に関与している人から間接的に関係している人まで、当然海外の国にまで広がっていくことだろう。そこで、他者でしかなかった人間が自分に関与していたことに気が付いたとき、その攻撃の手も幾分緩むのではないだろうか。

    もう一つは、人間には先に述べた宗教的行為の反復により、信仰心が強くなる性質がある可能性の自覚である。継続による変容と行動による変容を知識として蓄えること。そして、自分の信仰心の深化を客観的な視点で観測すること。これらを合わせて考えることで、死後の世界や超越的な存在の確信が人間ならではの「性質」に過ぎないと捉えられれば、宗教的価値が至上のものではなくなり、それに基づく他者への攻撃も抑えられるのではないかと思う。もしかしたら、他者への善意も控えめになるかもしれないが、それは宗教的価値に基づかなくても可能なはずだ。

    この二つを、公的な教育機関などで広く伝えられないかと思う。教義を直接否定しているわけではないから、既存の宗教と強く反発する要素はないはずだ。だが、同時に難しい問題なんだろうな、とも思う。真っ当な筋道の理屈抜きに、教義に対する帰依を、精神的に従うことを要請するのが宗教だからだ。人との結び付きより超越的な存在との結び付きを重視し、人の心に対して俗世よりも架空の素晴らしい世界への跳躍を志すのが宗教だからだ。

    そして、宗教的価値はその宗教を信奉する仲間内で価値があることと、その価値が他者に影響を及ぼす際には他者から反発される可能性があること。これらも広まってほしいと思うが、宗教全ての否定と思われかねないので難しい面もある。また、これらは他の価値についてもかなり当てはまることかもしれないが、念のためここでは保留しておく。

    上記の対策と心構えを根付かせるのは容易ではないだろう。残念ながら、これ以上はいいアイデアはない。あとは、世界に対する権威となりうる、国連による推奨や(できれば世界中の)マスコミによる連携したキャンペーンが望ましい、ぐらいしか思いつかない。

    そして、これから人類は宗教とどう付き合うべきか。先の対策と心構え、そして改めて宗教の設定を架空のものだと自覚した上で深入りし、宗教ならではの死後の世界などの思考に浸りつつ現実の生活と折り合いをつける、それを目指すのが最善だろう。

    *1 https://www.js.kuas.ac.jp/shs/blog/2016/03/08/%E8%B6%85%E6%95%B0%E5%AD%A6/ の『「科学と芸術」第5弾 フェルマーの最終定理 2018年9月』のPDF、https://www.js.kuas.ac.jp/shs/wp/img/2018/06/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%9C%80%E7%B5%82%E5%AE%9A%E7%90%86-3.pdf より
    なお、この手の数学の未解決問題は他にも多数ある。例えば、3と5、11と13、29と31のような差が2である素数(1とその数以外では割り切れない、2以上の自然数)の組、双子素数は無限に存在するか、というのはどうだろう。「数学 未解決問題」でインターネットを検索すれば、このような問題を色々と目にすることができる。

    *2 毛内拡 著『脳を司る「脳」』P127(講談社ブルーバックス)、五反田ストレスケアクリニック『ドーパミンシリーズ3:ドーパミンと報酬系の仕組み~「やる気」と「快楽」を生み出すメカニズム~』 https://gotanda-seishinka.com/column/%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA%EF%BC%93%EF%BC%9A%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%81%A8%E5%A0%B1%E9%85%AC%E7%B3%BB%E3%81%AE%E4%BB%95/

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    「呪い、魔王とメシア」 歌は、穂歌ソラさんです。ご視聴よろしくです。
     

     

  • タイタンの妖女(カート・ヴォネガット・ジュニア 著・浅倉久志 訳・ハヤカワ文庫)雑感

    まずは感想から。終わりの辺りまでは、1回読んどけばいいよね、と思っていた。しかし、終わりの部分が良かった。数年経っても読み返したくなるかもしれないと思った。なので、しばらく置いておくことにした。

    面白いかどうかと言われると、そこそこ面白いほうだと言える(ここでも言うけど、終わりの方が良かった)。というより、当初の展開の予想がズレたまま進んで行ったのを考えると、少し変わった感触の小説として紹介したい。

    あっ、私が持っているのと表紙が違う。


    ワクワク感については、xxxが出て来るまでが最も高かった。xxxが出てきて、あれっと思った。

    最初に興味ある謎(話題)を提起して読者を引き付けておく方法は、読んでいて推理小説に近い仕組みを感じた。

    アレはP-modelの楽曲の元ネタとしか思えないし、アレも一般名詞だけどそうなんじゃないかなと思う。きちんと調べてないですが。

    以前から、PCサーバーの一群をなぜ「クラウド(雲)」と呼ぶようになったのか気になっていてネットでいくつかその理由を読んで、それなら「サンゴ」でも「森」でもいいじゃないかと思っていたが、この本のP286の台詞に、これに影響されてもおかしくないような表現があったので引用してみる。

    「(略)それは、みんなが一吹きずつのもやを持ちよった雲のようなもので、その雲がみんなの代りにあらゆる重大な思考をやってくれるんだ。といっても、実際に雲があるわけじゃないよ。それに似たあるもの、という意味だ。(「実際に」には傍点あり)(以下略)」

    これはサーバー群をクラウドと名付けた人に尋ねたくなる。
    (この箇所とクラウド等との連想については、インターネット上に既に指摘あり)

    それにしても、これは読む前から思っていたのだが、アメリカの(SF文学史じゃなくて、全ての)文学史上この作品はどういう扱いになっているのだろうか。いや、もっと範囲を広く考えるべきだろう。アメリカにしろ日本にしろ他の国にしろ、このような、本道とされる文学とは異なる特定の分野の小説は、その国の(全ての)文学史の中で、どのような評価をされているのだろうか。SF小説、推理小説、時代小説、ラノベ、ミステリー、異世界……日本のSF小説だと、日本全体の文学史では星新一は評価されていそうだ、ぐらいの認識しかない。もちろん相当古い認識だろう。私の持っている国語便覧の年表を見てみると、一番新しいのが村上春樹の「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」(1985)だった。それとも、多種多彩な大量の小説が出版されている現代では全ての分野に渡って評価できる人または団体は存在しようがなく、そのような文学史を作成するのは最早不可能で、仕方がなくその代替として今我々が見知っているいかにも本道な感じの文学史を使っている状況なのだろうか。考えてもきりがないが、それがどうにも気になった。

    とりあえずこの記事は以上です。何かあったら付け足します。
     
     
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    「星のつぼみ」 歌は、野々原くろとさんです。ご視聴よろしくです。