時折、ミュージシャンが政治的主張をステージで行ったり、インタビューで発言した際に、インターネットで音楽に政治を持ち込むなという意見を見かけることがあるが、それは所詮その主張が気に入らないことを表明したということに過ぎない。ミュージシャンが自分の好む政治的主張を行った際には、そのような発言はしないはずだ。自分の気に入らない政治的主張を自分よりはるかに拡散力が大きい人物が行い、発言がニュースで取り上げられて広く賛同を集めるような事態は阻止したい。その気持ちが、先の意見につながっていったのだろう。
では、音楽と政治はどのようにあるべきか。いや、この際だから音楽のみならぬ芸術作品全てについて考えるべきである。なぜなら、音楽を含むこれらの芸術作品には、評論のような表現とは一線を画す特徴があるからだ。それは、評論が確かな根拠に基づき理屈や論理によって組み立てられて理性による理解、納得を求めるものであるのに対し、芸術作品は人の持つ感覚に訴え感銘を受けさせることで満足を求めるということだ。
もちろん、全ての作品、表現がはっきりと二分されるわけではない。芸術と評論の割合が2:8や6:4や5:5の作品や表現もあるだろう。芸術作品として展示されているから評論の要素がないとは限らないし、評論として発表されているから芸術作品の要素がないとも限らない。そこは注意しなければならない。
まず、政治の立場から考えてみる。政治の源として熱意がある。その国に住む人々の多数の幸福を叶え、守るための熱意が。その熱意を無駄にしないためには、法律などを定めたり予算を見積もったりといった作業は理性によって冷静かつ冷徹に検討され、議論され、計算されて決めるのが肝心である。より栄えようとする経済発展にしろ、弱者に寄り添う福祉にしろそれは変わらない。目的達成のための政策の発案から実行までの過程に、芸術作品による、理性が隔絶された感銘の入る余地はない。よって、政策に関する主張も、聴き手が冷静に判断するために感銘の要素を抜きにして行われるべきであると思われるが、そうではない。そこで終わる話ではない。
あるミュージシャンが政治的主張を行った場合を考えてみる。もちろん、そのミュージシャンは政治の専門家ではないとする。この場合、あの憧れの人がそう言っているのだから、それだけでその意見が正しいと思う人が出て来る。あの人に嫌われたくない、気に入られたい、近づきたいといった感情もそこに幾分かはあるのかもしれない。ミュージシャンの立場からすれば、聴き手を魅了して政治的な意見に影響を与えるほど芸の力がある、ともいえる。
よって、魅了された心は政治について冷徹な検討を行うことなく、良し悪し(みんなを長期的に幸福にするかどうか)よりも好き嫌いで(それも、政策の好き嫌いではなくミュージシャンの嗜好に合わせるという意味で)、政策を決定し、投票行動などに反映することだろう。傍から見れば、芸術によって心を動かされるのは真っ当な思考の邪魔でしかないように見える。
このような状況とどのように付き合うべきなのだろうか。言うまでもなく、ミュージシャンなどによる政治的主張は自由に行われるべきである。誰もが言いたいことが言えるのが幸福につながるからだ。よって、この題材は全て受け取る側、聴き手の側で対応すべき問題であるといえる。
我々は、政治的意見というのをどのように受け取って考えるべきか。答えは見えている。誰が言ったかは関係ない。どのように言われたかも関係ない。意見を、他の要素を取り払い、意見「だけ」そのまま受け取って検討し、判断すべきなのである。政治について知見のあるものでも間違っている場合がある。政治を知らない者でも正しい場合がある。だから、意見をそのまま受け取って、どの意見も同じように検討して逐一判断するのが正しい方法である。
そして、それは困難であり、ほぼ不可能だといえる。意見の量に対する個人の処理能力などたかが知れているからだ。実際、仕事をしているだけでも、関心のある政治的問題について国会やその委員会の審議や省内の会議の議事録、関連した論文を読む時間をとるのはかなり難しいだろう。時間があったとしても一日仕事をやり通したら、その仕事で疲れた頭を更に働かせるのは耐えられないはずだ。通勤時の列車が混んでいたらそれだけでストレスが溜まって思考できる余地はなくなる。更にこれに子育てが加わったら政治について考えるのはほぼ無理なのではないだろうか。意見の中には取るに足らないものもあるだろう。それらを全て相手にできる人間が想像できない。フルマラソンの後にフルマラソンをするような、そんな光景が浮かぶ。
よって、自分で突き詰めて考えることができない以上は、「政治的主張の信憑性が同程度であれば」結局のところ肩書や前歴、実績に頼って判断するしかなくなる。いわば経験則による納得である。それを堂々と肯定するわけにはいかない。これもまた、完全に理性による検討とは言い難く、それを行えないから仕方がなくその手段を取っているのに過ぎないからだ。実績などがある者の意見のほうが、それがない者の意見より正しい確率が高い、それだけのことだ。
それは「弱さ」であるとしか言いようがない。それをじっくり自覚する必要がある。その問題の専門家ではない自分は弱い。その政策について自分なりの見識を持ち語れるにまで至れない自分は弱い。それを噛み締めなければならない。
これについては、世間一般の人について当てはまることだと思われる。政治の大半の領域について弱くないといえる人はおそらくいまい。そして、その微かな政策に対する論理解析と経験則を基にした意見集合の多寡で世の中が動いてゆく。私としては、政治に関与し議題や議員の決定権を持つこと自体が私的財産の所有などと同じ意味での幸福権の一種である面もあると考えているが、大多数が参加する選挙(投票)というシステムはその意味だけではなく、その方法がみんなが幸福になる(あるいは、不幸にならない)確率が高い、ということで続いてきたのではないかと思えてくる。不満も誤りも多い世の中だが、下手するともっと悲惨な目にあったかもしれない。そう考えると、現状の大多数による投票より優れた政策決定の仕組みというのも考えづらい。(書いていて思ったが、これも経験則による判断だ。もし、有力な政策決定の方法が編み出されたら、厳密かつ悪影響を及ぼさない範囲での実証が要することになる。)
繰り返しになるが、全ての意見をそのまま受け取って判断するのが最善であり、実績などに頼るのはあくまでもやむを得ない手段である。今の時点でこの考え方が周知されているとは思えない。ただ、これが一般常識となり、誰もが他の人もこの考え方であることを認識している世の中になれば、ミュージシャンのような意見の拡散力がある人が政治的主張をしようと騒ぐことはなくなるだろう。誰の発言であっても同等に検討することが徹底されれば、憧れの人の意見であっても憧れであることが理由で支持することもなくなり、かつ、それが全体的に理解されているはずだからだ。その後で、根拠に基づいた理屈や論理がしっかりしたほうを選ぶようになれば、民主主義もより良く機能するに違いない。
ただ、「意見だけをそのまま受け取って検討し、判断する」というのは、それが「一旦、その場においては」の意味合いであっても、権威、つまりは肩書や前歴、実績の否定になるので学校教育などの公的機関からは言いづらそうな意見ではある。この見方を広めるためには、民間のマスコミやこのようなブログで折につけ触れ、発言するのが最善だろうか。それこそ拡散力の大きい、ミュージシャンとかが。
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