• 芸能人が政治を語ることについて

    芸能人が政治的な発言をするとインターネットが騒がしくなる昨今だが、今回はそれに関することについて書いてみる。いわゆるテレビのバラエティ番組に出るような芸能人に限らずとも、芸事、つまりは作品づくりによって生活している人についても幾分かはあてはまることだろう。

    まず、芸能人にとって、支持政党や政治問題を語ることで芸能活動が有利になることはほとんどないと思われる。これは、そのような芸能人に対する態度を想像すればわかりやすい。例えば、自分と政治的傾向が似ている芸能人について、それだけの理由でファンになったり、芸能活動に接したりすることはおそらくないはずだ。芸能活動に接するのはその人の芸が面白いからだとか好きだとかでその芸を味わいたいからであって、政治的傾向が似ていてもその人の芸に関心がなかったり、芸風が合わなかったり、その芸が下手だったりしたら見てみようとは思わないものと思われる。

    しかし、この逆は大いにありうる。ある芸能人が政治的見解を表明して、その傾向が自分と違っていたらどうなるか。そう、「敵に回る」のである。その芸能人について、わざわざX(旧Twitter)で「出演するな」「役を降りてほしい」「もう見ない」とか言い出したりする。今までどうとも思っておらず、それ故その芸能人について語ることもなかったのにも関わらず。独り言のように言うのは勝手だが、乱暴な言葉を本人に伝えるのはやり過ぎだ。これらはインターネットによって心情を吐露しやすくなり、それが可視化された結果だが、インターネットがなくても反発心から同様な心理になるのではないだろうか。そこには、自分が支持することでその芸人の収入になり、その収入の一部がが自分が支持できない政党や政治家に寄付される、といった面もあるのかもしれない。

    つまり、芸能人が政治を語っても味方が増えるわけではないが敵は生じてしまい、(おそらく軽度の)憎悪の対象になる確率が高い、というかほとんどそうなるとしか思えない。よって、芸能人が政治を語る利点はその職業上はないとしか言いようがない。

    更に言うなら、芸と言うものの大半は一時(いっとき)でも政治を含む俗世から離れて(もちろん現実の政治を題材に採ることもあるが)架空の世界を愉しむものなので、演者、芸能人の政治色が濃い分、鑑賞者にとってはそれが余計な情報、雑音になり芸の世界への没入を妨げる要因になってしまう。ただでさえ人の心を対象とした職業であり、何が理由で好かれたり嫌われたりするか理由付けが難しい、理不尽なこともあるはずなのに。そのような意味でも、政治に関連した要素は芸の障害でしかないと言える。

    以上が私が考察した日本の現状で、大きく外れてはいないと思う。そして、そこから先はその芸能人の生き方の問題と受け取るしかない。不利を承知で政治について言及を続けるのなら、もうそこに他者が介入できる余地はない。そして、芸を頼りに身を立てているのなら、その芸に誇りを持ち政治思想が原因で離れて行った人の心をも己の芸で客として引き戻してみせる、という心意気は別に矛盾しておらず、成り立つ心情である。

    そのことに関連して語っておきたいことがある。政治的立場の表明は成人において、特に芸能人、有名人のような大衆を相手とする知名度が高い人にとって社会的責務か否か。これはどちらでもいいと思う。つまり、それを社会的責務と見なす社会があってもいいし、別に立場を表明しなくてもいい社会であってもいい。何故なら、どちら(の傾向)の社会がその成員にとって幸福かは、その成員の性質の差によって変わるからだ。

    有名人の政治的立場がわかる(代わりに芸に没入しづらい)社会か、芸に没入しやすい(代わりに政治的立場は不明な)社会か。ここで、社会の成員に問われる性質は二つある。一つ目は、政治的立場の表明と芸への没入のどちらを重視するかの価値観であり、二つ目は、政治的立場の表明が芸への没入の妨げになるかならないかの性分である。この二つの性質の程度によって、社会が幸福になるのに最適な、政治的立場を表明することの社会的責務の程度が定まるのだろう。

    一つ目の価値観については明らかに嗜好だが、二つ目の性分についてはどうだろうか。理屈ではなく感情に訴える芸事に関しては、鑑賞する側からすれば、そこから人格(の強い要素)を切り離して考えるのは不自然で相当難しいように感じる。ここでは坊主憎けりゃ袈裟まで憎いという諺が否定しがたく立ちはだかる。よって、この二つ目の性分についても一つ目の価値観と同様に嗜好であり、理屈による説得等によって変えるのは困難だ。これより、政治的立場の表明の社会的責務の程度が異なっても、幸福度が同じなら社会全体の優劣はつけるべきではなく、社会としての性質が異なるだけの話だと考えたほうが適切なように思われる。

    ここで、政治的立場の表明の社会的責務とは別として、ある人の政治的立場の表明によって聴き手はその人のそれ以外の事象(例えば、ある人が芸能人ならその芸に接すること)を避けるべきではない(芸能人の政治的発言と芸事は切り離して考えるべき)、と規定された世の中の方が、言いたいことが言いやすいから社会全体としては幸福なのではないか、という論点についても書いておく。それはおそらく、政治的立場を表明したい人にとっては幸福かもしれないが、聴き手にとってはそうでもない気がする。意見を聞く側からすると、憧れの人や親しい人が自分と反対の政治信条の場合はそれを聞く機会も増えることになる。そこで多少なりとも嫌な気持ちになるのが通常であり、それがさして気にならない聖人が大半を占める社会は想像できない。

    そこに先の「それ以外の事象を避けるべきではない」といった先の規定が加わるとどうなるか。会うのを避けたいほど意見の異なる人間に対しては相応の対応をしたいのが自然であり、その規定によって心理的に抵抗が生じそうな状況では欲求不満が溜まらないか気掛かりだ。この規定は、少々表明する側に寄った見方のような気がする。聴く必要性のない、聴きたくない意見を聞く機会を減らす知恵もあっていいと思う。政治的立場の表明に対してどのような態度をとるべきか、どのような態度まで許されるべきかはその社会の成員が決めればいいことに過ぎない。そして、その態度が乖離している二つの社会を想定すれば、この二つの社会もまた、幸福度が同じなら優劣ではなく成員の性質の違いであると捉えたほうが適切だろう。

    これ以上はもう、好き嫌いでしか語れないことだと思う。私は政治的立場と芸事はある程度切り離して考えられる方だとは思うものの、どちらかというと芸を味わいたい方なので芸能人が政治的立場を表明しなくても責められることのない社会の方を、そして芸能人などの政治信条が合わなかったら現状(2026年2月の日本)の大多数と(おそらく)同様に、それを理由に避けたい場合は(と、ここまで長々と書いてはきたが、よくよく考えてみるとそんな場合はおそらくないのだろうけれど)接するのを避けたり、そのことをぶつくさインターネット上で表明しても四の五の言われない社会を望んでます。
     
     
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  • 音楽に政治が持ち込まれた時には

    時折、ミュージシャンが政治的主張をステージで行ったり、インタビューで発言した際に、インターネットで音楽に政治を持ち込むなという意見を見かけることがあるが、それは所詮その主張が気に入らないことを表明したということに過ぎない。ミュージシャンが自分の好む政治的主張を行った際には、そのような発言はしないはずだ。自分の気に入らない政治的主張を自分よりはるかに拡散力が大きい人物が行い、発言がニュースで取り上げられて広く賛同を集めるような事態は阻止したい。その気持ちが、先の意見につながっていったのだろう。

    では、音楽と政治はどのようにあるべきか。いや、この際だから音楽のみならぬ芸術作品全てについて考えるべきである。なぜなら、音楽を含むこれらの芸術作品には、評論のような表現とは一線を画す特徴があるからだ。それは、評論が確かな根拠に基づき理屈や論理によって組み立てられて理性による理解、納得を求めるものであるのに対し、芸術作品は人の持つ感覚に訴え感銘を受けさせることで満足を求めるということだ。

    もちろん、全ての作品、表現がはっきりと二分されるわけではない。芸術と評論の割合が2:8や6:4や5:5の作品や表現もあるだろう。芸術作品として展示されているから評論の要素がないとは限らないし、評論として発表されているから芸術作品の要素がないとも限らない。そこは注意しなければならない。

    まず、政治の立場から考えてみる。政治の源として熱意がある。その国に住む人々の多数の幸福を叶え、守るための熱意が。その熱意を無駄にしないためには、法律などを定めたり予算を見積もったりといった作業は理性によって冷静かつ冷徹に検討され、議論され、計算されて決めるのが肝心である。より栄えようとする経済発展にしろ、弱者に寄り添う福祉にしろそれは変わらない。目的達成のための政策の発案から実行までの過程に、芸術作品による、理性が隔絶された感銘の入る余地はない。よって、政策に関する主張も、聴き手が冷静に判断するために感銘の要素を抜きにして行われるべきであると思われるが、そうではない。そこで終わる話ではない。

    あるミュージシャンが政治的主張を行った場合を考えてみる。もちろん、そのミュージシャンは政治の専門家ではないとする。この場合、あの憧れの人がそう言っているのだから、それだけでその意見が正しいと思う人が出て来る。あの人に嫌われたくない、気に入られたい、近づきたいといった感情もそこに幾分かはあるのかもしれない。ミュージシャンの立場からすれば、聴き手を魅了して政治的な意見に影響を与えるほど芸の力がある、ともいえる。

    よって、魅了された心は政治について冷徹な検討を行うことなく、良し悪し(みんなを長期的に幸福にするかどうか)よりも好き嫌いで(それも、政策の好き嫌いではなくミュージシャンの嗜好に合わせるという意味で)、政策を決定し、投票行動などに反映することだろう。傍から見れば、芸術によって心を動かされるのは真っ当な思考の邪魔でしかないように見える。

    このような状況とどのように付き合うべきなのだろうか。言うまでもなく、ミュージシャンなどによる政治的主張は自由に行われるべきである。誰もが言いたいことが言えるのが幸福につながるからだ。よって、この題材は全て受け取る側、聴き手の側で対応すべき問題であるといえる。

    我々は、政治的意見というのをどのように受け取って考えるべきか。答えは見えている。誰が言ったかは関係ない。どのように言われたかも関係ない。意見を、他の要素を取り払い、意見「だけ」そのまま受け取って検討し、判断すべきなのである。政治について知見のあるものでも間違っている場合がある。政治を知らない者でも正しい場合がある。だから、意見をそのまま受け取って、どの意見も同じように検討して逐一判断するのが正しい方法である。

    そして、それは困難であり、ほぼ不可能だといえる。意見の量に対する個人の処理能力などたかが知れているからだ。実際、仕事をしているだけでも、関心のある政治的問題について国会やその委員会の審議や省内の会議の議事録、関連した論文を読む時間をとるのはかなり難しいだろう。時間があったとしても一日仕事をやり通したら、その仕事で疲れた頭を更に働かせるのは耐えられないはずだ。通勤時の列車が混んでいたらそれだけでストレスが溜まって思考できる余地はなくなる。更にこれに子育てが加わったら政治について考えるのはほぼ無理なのではないだろうか。意見の中には取るに足らないものもあるだろう。それらを全て相手にできる人間が想像できない。フルマラソンの後にフルマラソンをするような、そんな光景が浮かぶ。

    よって、自分で突き詰めて考えることができない以上は、「政治的主張の信憑性が同程度であれば」結局のところ肩書や前歴、実績に頼って判断するしかなくなる。いわば経験則による納得である。それを堂々と肯定するわけにはいかない。これもまた、完全に理性による検討とは言い難く、それを行えないから仕方がなくその手段を取っているのに過ぎないからだ。実績などがある者の意見のほうが、それがない者の意見より正しい確率が高い、それだけのことだ。

    それは「弱さ」であるとしか言いようがない。それをじっくり自覚する必要がある。その問題の専門家ではない自分は弱い。その政策について自分なりの見識を持ち語れるにまで至れない自分は弱い。それを噛み締めなければならない。

    これについては、世間一般の人について当てはまることだと思われる。政治の大半の領域について弱くないといえる人はおそらくいまい。そして、その微かな政策に対する論理解析と経験則を基にした意見集合の多寡で世の中が動いてゆく。私としては、政治に関与し議題や議員の決定権を持つこと自体が私的財産の所有などと同じ意味での幸福権の一種である面もあると考えているが、大多数が参加する選挙(投票)というシステムはその意味だけではなく、その方法がみんなが幸福になる(あるいは、不幸にならない)確率が高い、ということで続いてきたのではないかと思えてくる。不満も誤りも多い世の中だが、下手するともっと悲惨な目にあったかもしれない。そう考えると、現状の大多数による投票より優れた政策決定の仕組みというのも考えづらい。(書いていて思ったが、これも経験則による判断だ。もし、有力な政策決定の方法が編み出されたら、厳密かつ悪影響を及ぼさない範囲での実証が要することになる。)

    繰り返しになるが、全ての意見をそのまま受け取って判断するのが最善であり、実績などに頼るのはあくまでもやむを得ない手段である。今の時点でこの考え方が周知されているとは思えない。ただ、これが一般常識となり、誰もが他の人もこの考え方であることを認識している世の中になれば、ミュージシャンのような意見の拡散力がある人が政治的主張をしようと騒ぐことはなくなるだろう。誰の発言であっても同等に検討することが徹底されれば、憧れの人の意見であっても憧れであることが理由で支持することもなくなり、かつ、それが全体的に理解されているはずだからだ。その後で、根拠に基づいた理屈や論理がしっかりしたほうを選ぶようになれば、民主主義もより良く機能するに違いない。

    ただ、「意見だけをそのまま受け取って検討し、判断する」というのは、それが「一旦、その場においては」の意味合いであっても、権威、つまりは肩書や前歴、実績の否定になるので学校教育などの公的機関からは言いづらそうな意見ではある。この見方を広めるためには、民間のマスコミやこのようなブログで折につけ触れ、発言するのが最善だろうか。それこそ拡散力の大きい、ミュージシャンとかが。
     
     
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  • 目からウロコが落ちたときこそ

    困った。前々から書きたかった題材で、書く状況も今が最適なのだが、肝心の「目からウロコが落ちた感覚」が思い出せない。しばらく本棚を見て、目からウロコが落ちる体験をした本を探してみたがわからない。ただ、そのような経験が皆無だったとも言い難い。仕方がないので、中学生のときBOØWY(ボウイ)のB・BLUE(確か)を聴いて「自分達の時代の音楽が来た!」と興奮した感覚や、135(イチサンゴ、バンド)の我愛你(ウォーアイニー)を聴いて「すごい!特に聴いたことのないサウンドがすごい!」と夜聴いて盛り上った感覚を土台に代替しようかと思ったのですが、やっぱり少し違う気がします。

    それで今、この言葉の起源を調べてみたのですが、この言葉はなんと聖書由来だったのですね。新約聖書の使徒言行録(使徒行伝)第9章にその話がある。ということは世界で通じそうなたとえのような気がします。たとえば、DMM英会話によると the scales fall from one’s eyes という表現がある、とのことです。また、ENGLISH JOURNALでは、英語では悪いことにも使うといった指摘がされています。

    その第9章では、主の弟子を迫害していたサウロ(パウロ)が、ある日天からの光とともにイエスの声を聴き目が見えなくなったものの、アナニヤの祈りによって視力を取り戻し、数日後にイエスの教えに従うことを宣言したことが語られています。細かいことですが、私としてはサウロの目からウロコが、いや、正確に書くなら「ウロコのようなもの」が落ちる描写の前に、サウロはイエスが神の子であることを理解したことが描かれていないことが注意すべき点だと感じました。つまり、文章上はウロコ(のようなもの、以下略)が落ちた後にサウロが理解したと読み取れるのが、今の日本での一般的な用法、即ち「理解したからウロコが落ちた」と違っていて興味深く感じました。

    なお、理解と目が見えるか見えないかを結び付けた表現も覚えておきたいところで、これを逆手にとったのがギリシャ悲劇の「オイディプス王」です。目が見えても真実はわからない、目が見えなくても真実がわかるといった話で、紀元前427年頃に書かれたと言われています。


    さて、目からウロコが落ちたと感じたのはどんな時か。おそらく、何らかの情報によって自分の考えが改まったときだと思います。その情報は文章によるものかもしれないし、話し言葉によるものかもしれない。目から入った情報に限らないことは、その「目からウロコが落ちた感覚」は、眼球の表面の感触というより、視覚を含めた脳の感覚によるところが大きい気がします。

    ただ、問題はその情報を受け取ったとき脳にどんな感覚が生じようと、それは正解や真実を示すものではないということです。むしろ「意表を突かれたものの納得した」といった反発と同意の落差に対して脳が「困難に対する成功体験」にも似た作用をしたのではないか。それは、思考を中断して、感覚が論理や理性を抑えつけたような瞬間のような気がします。

    そして、脳はおそらく滅多に体感しない刺激に弱い。その刺激を新鮮なものと肯定的に捉えてしまう。その結果、感情が釣られそのような感覚をもたらした情報に同意しやすくなってしまうのではないか、そんな気すらしてきます。これは、他者による情報のみならず、自分で考えて「閃いた!」と思ったときのも同様でしょう。

    また、これの弱いバージョンで「面白く感じた場合」も似た面があるのではないかと考えています。ある意見が聴き手を面白がらせるやり方で紹介される。その時聴き手が面白く、快く感じた方がその意見を受け入れやすくなる、そんなイメージがある。もしかしたら脳には、快くなったときに聴いた意見を、自分を快くしたが故に正しい、真実であると判定する傾向がいくらかはあるのかもしれない。もちろんこの場合もその快さの程度が正しさと合致しているかどうかは別であり、もし面白かった分それに伴う意見が受け入れられる傾向が見られるのなら、これもまた感覚が理性などを抑えつけた例だといえます。

    ここで思い出してほしいのが普段の飲食、特にお菓子や飲み物などの嗜好品を摂ったときのことで、甘い物を食べたときの甘ったるい感覚が頭に広がる感じや、辛いのものを食べたときの頭の熱さ、コーヒーでカフェインを摂ったときの頭にツンーと来る感触など、その程度でも脳の感覚は結構変わってしまうのですよね。

    それを考えると、何か食べた程度で変わってしまうような性質を持つ脳の感覚を真実の判定に使うべきではない、そうとしか言いようがないです。論理や理性より感覚による判断が重視される状況は宗教ぐらいしかないのではないか、とすら思えてきます(ただし、宗教の人知を超えた部分の真実性は誰も証明できない)。ただ、感覚によらず判断するのは難しい。特に即答を求められる場面ではそうだと思います。そして、新鮮な刺激や面白さをもたらしたから誤りだ、ともいえない。どうすればいいのか。

    それにはまず、自分の脳の快・不快などの感情によって引き起こされる感覚の程度や変化を客観的に捉えられるようにすることではないかと考えています。今、自分は普段より熱くなっているな、今日はなんだかイライラしてるな、紅茶を飲んだせいか気分が落ち着いてきたな、というように。もちろん四六時中そうである必要はないです。己を客観的に見るべき場面で使えれば十分ですので。

    そして、繰り返しになりますが、意見を判断する際には、その自覚した快・不快などの感覚を切り離すことを心掛けることでしょう。そう、目にウロコが入ったときこそ、その感覚に浸ることなく「危うい」と警戒するべきなのです。そして、快・不快に限らず感情は、特に強い感情は自分でもそう簡単に変えたり抑えたりすることは困難なので、その感覚が去って頭が冷めた後でじっくり考えること、それをよく心得ておいていただければと思うのです。

    先に宗教の例をあげましたが、もしかしたら、それ以外にも論理や理性より感覚が重視される状況もあるのかもしれない。その場合でも、できるだけ論理や理性と感覚のどちらを優先すべきか一呼吸置いて考えてから判断するべきであり、感覚にたやすく呑まれて論理を打ち切り理性を捨てて思考停止するのは、所詮「わかったつもり」の域を出ないので避けるべきであると思う次第です。
     
     
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  • 参政党が好きな人におすすめの本

    本棚にあったので久しぶりに読んだのですが、本当におすすめできる本でした。

    山中恒 著「子どもたちの太平洋戦争 -国民学校の時代-」(岩波新書)


    というのも、今回の選挙で参政党に一票入れたい人はご存知だと思いますが、同党の新日本憲法(構想案)には以下のような文言があるのですね。
     
    ——引用開始——
     
    前文より
    (略)
    天皇は、いにしえより国をしらすこと悠久であり、国民を慈しみ、その安寧と幸せを祈り、国民もまた天皇を敬慕し、国全体が家族のように助け合って暮らす。(略)これが今も続く日本の國體である。
    (以下略、「國體」は「国体」の旧字体による表現)

    第一章 天皇

    (天皇)
    第一条 日本は、天皇のしらす(2)君民一体(3)の国家である。
    2 天皇は、国の伝統の祭祀を主宰(4)し、国民を統合する。
    3 天皇は、国民の幸せを祈る神聖な存在(5)として侵してはならない。

    (2)しらすとは、国民の実情を広く知って日本を治める意味の古語である。
    (3)君民一体とは、天皇と国民が一体となって国を治める意味をいう。
    (4)大嘗祭、新嘗祭などは国の公式の祭祀となる。
    (5)神聖は君主の属性でもあり、皇祖皇宗の神霊と一体として詔勅を発し、祭祀を主宰する事実による。

    ——引用終了——

    ここで「国民もまた天皇を敬慕し、」と義務のように書かれるとちょっと待てと思うわけです。そして、憲法に書いてあれば何らかの形で法律に反映されるはずです。敬慕の義務化が。現行の日本国憲法の前文が法律に反映されていなくても今後はそうとも限らない。どこかで前文を法案に反映しないことを明文化するまでは油断ならない、というのが私の考えです。

    それに、国家権力の指示による敬慕は真に敬慕といえるのか、といった問いもあります。感情は指示で変えられるものなのか。指示で変えられるのは行動のみであり、それは所詮「敬慕するふり」に過ぎないのではないか。仮に敬慕の言葉を強制的に連呼させることで心が変えられるとしても、その場合国民の精神にふさわしい健全さは保たれているのか。敬慕しないことで不利益にならなくても敬う情が湧いてくること、それこそが敬慕と呼べるのではないか。

    第一条と2については、どう考えても天皇をそれ以外の国民の上に置く考え方で溢れています。「しらす(日本を治める)」「君民」「国民を統合する」。私としては、ここまで自分が誰かよりも下の存在だとはっきり書かれるのは抵抗があります。3も同様で、「神聖」「侵してはならない」と特別な存在に祭り上げているのですが、ここで自分たちが暗に「神聖でも侵してはならない存在でもない」とされていることに理不尽と不条理と怒りを感じられるかが今後の大きな岐路になると思います。

    私は、これら条文の先には天皇の名における非常に窮屈な世の中が待っていると考えてます。常日頃から皇族に気を遣い、行動にも気を配らなければならない世の中が。

    ただ、具体的に何が起こるのか想像するのは難しいと思います。急にそんなこと言われても、というのが正直なところでしょう。そこで比較的近い歴史から学ぼう、というのがこの本を取り上げた理由です。

    本書のP18、19に、1940年(昭和15年)以降の日本で起きた、今では考えられない出来事が紹介されています。

    ——引用開始——

    天皇に関して、この作文のなかに、ラジオの実況放送のことが出てくるが、当時は、天皇の声は電波にのせることが許されていなかったのである。ラジオ放送を聴くものがすべて、直立不動の姿勢をとっているとは限らない、病床で寝ながら、それを聴くものもいるであろう、そのようなことがあっては、天皇陛下に対し奉(たてまつ)りまことに恐れ多いことであるからというので、天皇の声は放送されなかった。(P18)

    (略)陸軍特別大演習というのがあり、天皇が私たちの町へ立ち寄ることになった。駅の近辺の家で、二階に寝ていた病人は警察官立ち会いのもとに、みんな一階へ移された。天皇より高い位置で寝そべっていることは、天皇に対して恐れ多いというのであった。(P18)

    (略)ニュース映画に天皇や皇族が登場する場合、予め字幕で「脱帽」と出た。観客はこれを見たら、単に脱帽するばかりではなく、姿勢を正して画面を拝観せねばならなかった。その「脱帽」の字幕を見て「やれやれ!」といったのを特高警察に聴かれて検挙され、不敬罪で起訴された人たちのことなどが『特高月報』の〈不敬言辞〉の欄に、うんざりするほど記録されている。(P18、19)

    ——引用終了——

    また、P59には天皇機関説を唱えた憲法学者かつ貴族院議員の美濃部達吉が議員を辞任させられた経緯が書かれています。天皇機関説とは、コトバンクの表記を元にまとめると「主権は国家にあるので、天皇は法人としての国家の最高機関だが主権者ではない」といった説で、天皇を学問的に議論の対象にしただけで多大な不利益を受けた例もあったわけです。

    つまり、たった一人を特別扱いすることを決めただけであっても、それが突き詰められることでものすごく過ごしづらい世の中になるかもしれない。それは、通ってほしくない法案を止めるのがいかに困難か、不可能に近いかを考えていただければ思い当たることもあるのではないかと思います。

    なお、上記の憲法案のような天皇崇拝の空気が広まれば、その中から今よりも更に天皇を敬うが故に堅苦しい状況を望み、実践に動く人も続々出て来るのではないか、そんな危惧もしています。それなら、そのような方向に行かないように努めたほうがいいのではないかと思うのです。日本国憲法第十二条の「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」にはそのような意味合いも込められていると考えています。

    また、本書には当時の子どもたちの作文も少し掲載されています。その中で、「恐らく、かなりの量の教師の添削があった」と述べられているものの、世界観が日本神話に染まった子どもの作文が載せられていて(P22-25)、途中で「思うと紀元二千六百年は、神武天皇様が国をおはじめになった昔を目の前に見る様なわけで深く尊く感じられます。」という表現があって、こういう考え方しか許されなかった子どもが大半だとしたら、本当にみんな心が狭苦しかったのではないかと思うわけです。

    更に、授業前の唱和と暗記が(尋常小学校)三年生のころから強制された「天壌無窮の神勅(てんじょうむきゅうのしんちょく)」の説明もあります(P29)。神勅自体の内容は以下の通りです。

    「豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の国は、是れ吾(あ)が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。宜しく爾皇孫就(いましすめみまゆ)きて治(しら)せ。行矣(さきくませ)。宝祚(あまつひつぎ)の隆(さかえ)まさんこと、当(まさ)に天壌(あめつち)と窮(きわま)りなかるべし」

    そして、〈国体〉とはこの神勅による日本が万世一系の天皇に統治されることの決定を受けた政治体制であり、この神勅は日本人であれば信じなければならないとされたので、大人もまた心が狭苦しかった部分があったのではないかと思うのです。

    ここで、宗教という「現実と言い張るよくできたフィクション」の持つ、「心をつらい現世から逃して架空の世界にしばらく置くことで充実を図る役割」に着目する必要があります。改めて書くなら、崇拝の対象に宗教性があるとこの宗教の世界まで圧迫されて心の逃げ場がなくなる、そんな気がします。そしてそれは、宗教的世界、つまり心も支配されることになることをひしひしと感じます。たった一人を特別に扱うことで、やがては行動も心も支配されかねない。その危険性を、一旦そうなったら元に戻すことは相当困難だと思われるのとともに、重々感じていただければと願うばかりです。

    本書の主体は題名の通り、太平洋戦争の時代の子どもたちの生活を描いたものです。そして、そのそこかしこに天皇の影響が表出する。天皇陛下に忠義を尽くすことを作文に書いたり(P8)、口頭試問で礼拝の仕方や、君が代を歌っている時、聞いている時の気持などを問われたりする(P166)。絶対に逆らえない存在を設けてその下に自分を置くことが幸せを招くとは思えません。

    私としては、今後有権者が舵取りを誤ったら再度そのような世の中になっても不思議ではないと考えています。客観的には今の状態から近いうちにそうなるとは思えないし、同様にそう思っている人が大半でしょう。それでも、そこに安住して警句を発するための努力を怠(おこた)れば、大袈裟でいい気分になれる意見に引きずられ、意志が強くて声の大きい人たちが望むような世の中になってしまう気がしてなりません。

    それを防ぐためには信頼性のある情報を見極めて学び続けるしかないのですが、それが難しい日常も存在する。となると、無知の知を徹底するしかないのではないかと思うわけです。自分が他人に説明できるほど詳しくなければ、賛同するのはしばらく保留する。聴いていて気持ちが良くなる意見が、将来的に正解とは限らないことを覚えておいていただければと思います。

    同じ意味合いで、この記事を紹介しておきます。

    選挙の前にたしかめて 生成AIの選挙動画に注意! NHK ONE 2026年1月30日

    あと、この本のいいところは何と言っても読みやすいことです。子どもの視点を織り交ぜながら書かれていることもあり手軽に読めるので、通勤時、特に帰宅時のように難しいことを考えたくないときでも読み進めることができるのは、大きな利点だと思います。岩波書店のサイトでは品切れで電子書籍もないようなので(2026年2月1日現在)、上のAmazonの他に中古で入手できるリンクを以下に貼っておきます。この類の本に目を通したことがない人ほど新しい発見が待っているはずなので、是非この機会に一歩踏み込んでいただければと思います。

    ブックオフオンライン
    ネットオフ
    日本の古本屋※
    ヤフーオークション※
    メルカリ※
    ※:書名が類似した別の本もあるので注意
     
     
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    「魂の和」 歌は、 雷歌ヒビキさんと雷鳴カゲロウさんです。ご視聴よろしくです。
     

     

  • 占いの効用について

    最近は朝の民放のバラエティーな感じの情報番組も雑誌も見てないのでわからないが、占いは今どうなっているのだろうか。今年はおみくじも引いてないこともあって、長いこと占いが縁遠くなってしまった。娯楽のための雑誌や番組はいいが、通常の報道も行うような情報番組では占いは場違いな気がする。しかし、占いならではの効用もおそらくある。それを幾つか思いついたのでここに記すことにした。

    言うまでもなく占いとは今日これからを含めた未来をより良く過ごすための行動などを示したものだが、その内容を大まかに言えば提案と警句だろう。運が向く行き先や行動、ラッキーカラーなどの助言が提案であり、避けた方がいい行為などについて述べたものが警句である。あとは、相性判断の類だろうか。それらの占いの根拠は、誕生日や血液型などの偶然による変えがたい属性によるものが主だろう。

    提案については、「期待」がキーワードだ。その提案は比較的簡単に達成できるはずで、日々懸命に働いて月収50万を越えれば幸せ、といった内容ではないはずだ。つまり、少ない労力で効果を得られることを示唆している。それを信じ、期待することで脳が活性化して頭がよく働くようになり気持ちも積極的になる、この面が大きいのではないだろうか。その結果、仕事でいい発想が浮かんだり、逆にミスに気付いたり、視野が広くなって普段なら見過ごしそうな路上の落とし物が目に入ったりするかもしれない。これは相性判断でも同じことがいえる。

    警句については、「慎重」がキーワードとなる。判断のために思考することで迂闊(うかつ)な行動が減り、危機を回避できるかもしれない。ただ、ここで気を付けたいことがある。行動の否定だ。ある行為については注意しよう、ぐらいなら先の効果が働くかもしれないが、その行為をするべきではない、という言葉は可能性を閉ざすだけなので聞き入れる価値が感じられない。特に相性判断にその危険性を感じる。人付き合いの相性は偶然による属性よりも実際の言動のやり取りによるところが大きいからだ。その言動はその人の資質と育ってきた環境の影響なので、そこに占いの根拠が介入できる余地はほとんどないはずである。

    さて、ここでもう一つ書いておきたいことがある。占いの当たり外れについてだ。占いが当たったか外れたか、言い換えれば幸運が訪れたか、不幸に遭ったかの判断は、本人の主観、判断によるところがほとんどだろう。そこそこ客が入るカフェに行って、お気に入りの席が空いていたとする。人によってはそれが普通かもしれないし、あるいは運が良かった、占いが当たったと感じるかもしれない。また、いつも買っている商品が品切れだったとする。こちらも、よくあることだと捉える人もいれば、運が悪かった、占いが当たってしまったと思うかもしれない。となると、占いの当たり外れは、当人が占いを信じるかどうか、都合よく解釈するかどうかによるところが大きい。

    ただ、占いの根拠は先に述べたように偶然による変えがたい属性によるものが主なので、真っ当なものとは言い難い。なので、それらの根拠を本当に信じ込む人はあまり居ないと思う。よって、次のような言い方をせざるを得ない。占いを信じる人にとっては、占いによる効用によってその分幸せになった。このことは、占いの概念がない世界よりは良かったのではないか、と。

    占いによって幸せになるために無理して占いの根拠を信じようとするのは感心しない。落ち着いて考えてみて、きちんと相手にするだけの思想でなければ相手にしないほうがいい。無理をして信じようとしても心に負担がかかって辛くなるだけだ。その辛さは、おそらく先に述べた占いによる効用を上回ることだろう。無理して信じるのは常時でかつ精神の根幹に関わることだが、占いの効用が現れる頻度はそんなに多くなく、その幸運の程度も所詮は偶然で少しいいことがあった、ぐらいのものではないだろうか。それが努力による幸運より確かなものとは思えない。

    最後に、繰り返しになるが警句の範疇(はんちゅう)を越えた否定的な言辞、選択肢を狭める文言にはくれぐれも気を付けたい。これだけは、占いを信じることが幸せから遠ざかる負の要素だろう。どうしても気になるのなら、占いの文句を抜きにしてじっくり考えることだ。何事も、最善を尽くして取り組んだほうが、仮に上手くいかなかったとしても後悔は少ないはずだからだ。

    とりあえずこの記事は以上です。何かあったら付け足します。
     
     
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