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  • 芸能人が政治を語ることについて

    芸能人が政治的な発言をするとインターネットが騒がしくなる昨今だが、今回はそれに関することについて書いてみる。いわゆるテレビのバラエティ番組に出るような芸能人に限らずとも、芸事、つまりは作品づくりによって生活している人についても幾分かはあてはまることだろう。

    まず、芸能人にとって、支持政党や政治問題を語ることで芸能活動が有利になることはほとんどないと思われる。これは、そのような芸能人に対する態度を想像すればわかりやすい。例えば、自分と政治的傾向が似ている芸能人について、それだけの理由でファンになったり、芸能活動に接したりすることはおそらくないはずだ。芸能活動に接するのはその人の芸が面白いからだとか好きだとかでその芸を味わいたいからであって、政治的傾向が似ていてもその人の芸に関心がなかったり、芸風が合わなかったり、その芸が下手だったりしたら見てみようとは思わないものと思われる。

    しかし、この逆は大いにありうる。ある芸能人が政治的見解を表明して、その傾向が自分と違っていたらどうなるか。そう、「敵に回る」のである。その芸能人について、わざわざX(旧Twitter)で「出演するな」「役を降りてほしい」「もう見ない」とか言い出したりする。今までどうとも思っておらず、それ故その芸能人について語ることもなかったのにも関わらず。独り言のように言うのは勝手だが、乱暴な言葉を本人に伝えるのはやり過ぎだ。これらはインターネットによって心情を吐露しやすくなり、それが可視化された結果だが、インターネットがなくても反発心から同様な心理になるのではないだろうか。そこには、自分が支持することでその芸人の収入になり、その収入の一部がが自分が支持できない政党や政治家に寄付される、といった面もあるのかもしれない。

    つまり、芸能人が政治を語っても味方が増えるわけではないが敵は生じてしまい、(おそらく軽度の)憎悪の対象になる確率が高い、というかほとんどそうなるとしか思えない。よって、芸能人が政治を語る利点はその職業上はないとしか言いようがない。

    更に言うなら、芸と言うものの大半は一時(いっとき)でも政治を含む俗世から離れて(もちろん現実の政治を題材に採ることもあるが)架空の世界を愉しむものなので、演者、芸能人の政治色が濃い分、鑑賞者にとってはそれが余計な情報、雑音になり芸の世界への没入を妨げる要因になってしまう。ただでさえ人の心を対象とした職業であり、何が理由で好かれたり嫌われたりするか理由付けが難しい、理不尽なこともあるはずなのに。そのような意味でも、政治に関連した要素は芸の障害でしかないと言える。

    以上が私が考察した日本の現状で、大きく外れてはいないと思う。そして、そこから先はその芸能人の生き方の問題と受け取るしかない。不利を承知で政治について言及を続けるのなら、もうそこに他者が介入できる余地はない。そして、芸を頼りに身を立てているのなら、その芸に誇りを持ち政治思想が原因で離れて行った人の心をも己の芸で客として引き戻してみせる、という心意気は別に矛盾しておらず、成り立つ心情である。

    そのことに関連して語っておきたいことがある。政治的立場の表明は成人において、特に芸能人、有名人のような大衆を相手とする知名度が高い人にとって社会的責務か否か。これはどちらでもいいと思う。つまり、それを社会的責務と見なす社会があってもいいし、別に立場を表明しなくてもいい社会であってもいい。何故なら、どちら(の傾向)の社会がその成員にとって幸福かは、その成員の性質の差によって変わるからだ。

    有名人の政治的立場がわかる(代わりに芸に没入しづらい)社会か、芸に没入しやすい(代わりに政治的立場は不明な)社会か。ここで、社会の成員に問われる性質は二つある。一つ目は、政治的立場の表明と芸への没入のどちらを重視するかの価値観であり、二つ目は、政治的立場の表明が芸への没入の妨げになるかならないかの性分である。この二つの性質の程度によって、社会が幸福になるのに最適な、政治的立場を表明することの社会的責務の程度が定まるのだろう。

    一つ目の価値観については明らかに嗜好だが、二つ目の性分についてはどうだろうか。理屈ではなく感情に訴える芸事に関しては、鑑賞する側からすれば、そこから人格(の強い要素)を切り離して考えるのは不自然で相当難しいように感じる。ここでは坊主憎けりゃ袈裟まで憎いという諺が否定しがたく立ちはだかる。よって、この二つ目の性分についても一つ目の価値観と同様に嗜好であり、理屈による説得等によって変えるのは困難だ。これより、政治的立場の表明の社会的責務の程度が異なっても、幸福度が同じなら社会全体の優劣はつけるべきではなく、社会としての性質が異なるだけの話だと考えたほうが適切なように思われる。

    ここで、政治的立場の表明の社会的責務とは別として、ある人の政治的立場の表明によって聴き手はその人のそれ以外の事象(例えば、ある人が芸能人ならその芸に接すること)を避けるべきではない(芸能人の政治的発言と芸事は切り離して考えるべき)、と規定された世の中の方が、言いたいことが言いやすいから社会全体としては幸福なのではないか、という論点についても書いておく。それはおそらく、政治的立場を表明したい人にとっては幸福かもしれないが、聴き手にとってはそうでもない気がする。意見を聞く側からすると、憧れの人や親しい人が自分と反対の政治信条の場合はそれを聞く機会も増えることになる。そこで多少なりとも嫌な気持ちになるのが通常であり、それがさして気にならない聖人が大半を占める社会は想像できない。

    そこに先の「それ以外の事象を避けるべきではない」といった先の規定が加わるとどうなるか。会うのを避けたいほど意見の異なる人間に対しては相応の対応をしたいのが自然であり、その規定によって心理的に抵抗が生じそうな状況では欲求不満が溜まらないか気掛かりだ。この規定は、少々表明する側に寄った見方のような気がする。聴く必要性のない、聴きたくない意見を聞く機会を減らす知恵もあっていいと思う。政治的立場の表明に対してどのような態度をとるべきか、どのような態度まで許されるべきかはその社会の成員が決めればいいことに過ぎない。そして、その態度が乖離している二つの社会を想定すれば、この二つの社会もまた、幸福度が同じなら優劣ではなく成員の性質の違いであると捉えたほうが適切だろう。

    これ以上はもう、好き嫌いでしか語れないことだと思う。私は政治的立場と芸事はある程度切り離して考えられる方だとは思うものの、どちらかというと芸を味わいたい方なので芸能人が政治的立場を表明しなくても責められることのない社会の方を、そして芸能人などの政治信条が合わなかったら現状(2026年2月の日本)の大多数と(おそらく)同様に、それを理由に避けたい場合は(と、ここまで長々と書いてはきたが、よくよく考えてみるとそんな場合はおそらくないのだろうけれど)接するのを避けたり、そのことをぶつくさインターネット上で表明しても四の五の言われない社会を望んでます。
     
     
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  • 音楽に政治が持ち込まれた時には

    時折、ミュージシャンが政治的主張をステージで行ったり、インタビューで発言した際に、インターネットで音楽に政治を持ち込むなという意見を見かけることがあるが、それは所詮その主張が気に入らないことを表明したということに過ぎない。ミュージシャンが自分の好む政治的主張を行った際には、そのような発言はしないはずだ。自分の気に入らない政治的主張を自分よりはるかに拡散力が大きい人物が行い、発言がニュースで取り上げられて広く賛同を集めるような事態は阻止したい。その気持ちが、先の意見につながっていったのだろう。

    では、音楽と政治はどのようにあるべきか。いや、この際だから音楽のみならぬ芸術作品全てについて考えるべきである。なぜなら、音楽を含むこれらの芸術作品には、評論のような表現とは一線を画す特徴があるからだ。それは、評論が確かな根拠に基づき理屈や論理によって組み立てられて理性による理解、納得を求めるものであるのに対し、芸術作品は人の持つ感覚に訴え感銘を受けさせることで満足を求めるということだ。

    もちろん、全ての作品、表現がはっきりと二分されるわけではない。芸術と評論の割合が2:8や6:4や5:5の作品や表現もあるだろう。芸術作品として展示されているから評論の要素がないとは限らないし、評論として発表されているから芸術作品の要素がないとも限らない。そこは注意しなければならない。

    まず、政治の立場から考えてみる。政治の源として熱意がある。その国に住む人々の多数の幸福を叶え、守るための熱意が。その熱意を無駄にしないためには、法律などを定めたり予算を見積もったりといった作業は理性によって冷静かつ冷徹に検討され、議論され、計算されて決めるのが肝心である。より栄えようとする経済発展にしろ、弱者に寄り添う福祉にしろそれは変わらない。目的達成のための政策の発案から実行までの過程に、芸術作品による、理性が隔絶された感銘の入る余地はない。よって、政策に関する主張も、聴き手が冷静に判断するために感銘の要素を抜きにして行われるべきであると思われるが、そうではない。そこで終わる話ではない。

    あるミュージシャンが政治的主張を行った場合を考えてみる。もちろん、そのミュージシャンは政治の専門家ではないとする。この場合、あの憧れの人がそう言っているのだから、それだけでその意見が正しいと思う人が出て来る。あの人に嫌われたくない、気に入られたい、近づきたいといった感情もそこに幾分かはあるのかもしれない。ミュージシャンの立場からすれば、聴き手を魅了して政治的な意見に影響を与えるほど芸の力がある、ともいえる。

    よって、魅了された心は政治について冷徹な検討を行うことなく、良し悪し(みんなを長期的に幸福にするかどうか)よりも好き嫌いで(それも、政策の好き嫌いではなくミュージシャンの嗜好に合わせるという意味で)、政策を決定し、投票行動などに反映することだろう。傍から見れば、芸術によって心を動かされるのは真っ当な思考の邪魔でしかないように見える。

    このような状況とどのように付き合うべきなのだろうか。言うまでもなく、ミュージシャンなどによる政治的主張は自由に行われるべきである。誰もが言いたいことが言えるのが幸福につながるからだ。よって、この題材は全て受け取る側、聴き手の側で対応すべき問題であるといえる。

    我々は、政治的意見というのをどのように受け取って考えるべきか。答えは見えている。誰が言ったかは関係ない。どのように言われたかも関係ない。意見を、他の要素を取り払い、意見「だけ」そのまま受け取って検討し、判断すべきなのである。政治について知見のあるものでも間違っている場合がある。政治を知らない者でも正しい場合がある。だから、意見をそのまま受け取って、どの意見も同じように検討して逐一判断するのが正しい方法である。

    そして、それは困難であり、ほぼ不可能だといえる。意見の量に対する個人の処理能力などたかが知れているからだ。実際、仕事をしているだけでも、関心のある政治的問題について国会やその委員会の審議や省内の会議の議事録、関連した論文を読む時間をとるのはかなり難しいだろう。時間があったとしても一日仕事をやり通したら、その仕事で疲れた頭を更に働かせるのは耐えられないはずだ。通勤時の列車が混んでいたらそれだけでストレスが溜まって思考できる余地はなくなる。更にこれに子育てが加わったら政治について考えるのはほぼ無理なのではないだろうか。意見の中には取るに足らないものもあるだろう。それらを全て相手にできる人間が想像できない。フルマラソンの後にフルマラソンをするような、そんな光景が浮かぶ。

    よって、自分で突き詰めて考えることができない以上は、「政治的主張の信憑性が同程度であれば」結局のところ肩書や前歴、実績に頼って判断するしかなくなる。いわば経験則による納得である。それを堂々と肯定するわけにはいかない。これもまた、完全に理性による検討とは言い難く、それを行えないから仕方がなくその手段を取っているのに過ぎないからだ。実績などがある者の意見のほうが、それがない者の意見より正しい確率が高い、それだけのことだ。

    それは「弱さ」であるとしか言いようがない。それをじっくり自覚する必要がある。その問題の専門家ではない自分は弱い。その政策について自分なりの見識を持ち語れるにまで至れない自分は弱い。それを噛み締めなければならない。

    これについては、世間一般の人について当てはまることだと思われる。政治の大半の領域について弱くないといえる人はおそらくいまい。そして、その微かな政策に対する論理解析と経験則を基にした意見集合の多寡で世の中が動いてゆく。私としては、政治に関与し議題や議員の決定権を持つこと自体が私的財産の所有などと同じ意味での幸福権の一種である面もあると考えているが、大多数が参加する選挙(投票)というシステムはその意味だけではなく、その方法がみんなが幸福になる(あるいは、不幸にならない)確率が高い、ということで続いてきたのではないかと思えてくる。不満も誤りも多い世の中だが、下手するともっと悲惨な目にあったかもしれない。そう考えると、現状の大多数による投票より優れた政策決定の仕組みというのも考えづらい。(書いていて思ったが、これも経験則による判断だ。もし、有力な政策決定の方法が編み出されたら、厳密かつ悪影響を及ぼさない範囲での実証が要することになる。)

    繰り返しになるが、全ての意見をそのまま受け取って判断するのが最善であり、実績などに頼るのはあくまでもやむを得ない手段である。今の時点でこの考え方が周知されているとは思えない。ただ、これが一般常識となり、誰もが他の人もこの考え方であることを認識している世の中になれば、ミュージシャンのような意見の拡散力がある人が政治的主張をしようと騒ぐことはなくなるだろう。誰の発言であっても同等に検討することが徹底されれば、憧れの人の意見であっても憧れであることが理由で支持することもなくなり、かつ、それが全体的に理解されているはずだからだ。その後で、根拠に基づいた理屈や論理がしっかりしたほうを選ぶようになれば、民主主義もより良く機能するに違いない。

    ただ、「意見だけをそのまま受け取って検討し、判断する」というのは、それが「一旦、その場においては」の意味合いであっても、権威、つまりは肩書や前歴、実績の否定になるので学校教育などの公的機関からは言いづらそうな意見ではある。この見方を広めるためには、民間のマスコミやこのようなブログで折につけ触れ、発言するのが最善だろうか。それこそ拡散力の大きい、ミュージシャンとかが。
     
     
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  • 目からウロコが落ちたときこそ

    困った。前々から書きたかった題材で、書く状況も今が最適なのだが、肝心の「目からウロコが落ちた感覚」が思い出せない。しばらく本棚を見て、目からウロコが落ちる体験をした本を探してみたがわからない。ただ、そのような経験が皆無だったとも言い難い。仕方がないので、中学生のときBOØWY(ボウイ)のB・BLUE(確か)を聴いて「自分達の時代の音楽が来た!」と興奮した感覚や、135(イチサンゴ、バンド)の我愛你(ウォーアイニー)を聴いて「すごい!特に聴いたことのないサウンドがすごい!」と夜聴いて盛り上った感覚を土台に代替しようかと思ったのですが、やっぱり少し違う気がします。

    それで今、この言葉の起源を調べてみたのですが、この言葉はなんと聖書由来だったのですね。新約聖書の使徒言行録(使徒行伝)第9章にその話がある。ということは世界で通じそうなたとえのような気がします。たとえば、DMM英会話によると the scales fall from one’s eyes という表現がある、とのことです。また、ENGLISH JOURNALでは、英語では悪いことにも使うといった指摘がされています。

    その第9章では、主の弟子を迫害していたサウロ(パウロ)が、ある日天からの光とともにイエスの声を聴き目が見えなくなったものの、アナニヤの祈りによって視力を取り戻し、数日後にイエスの教えに従うことを宣言したことが語られています。細かいことですが、私としてはサウロの目からウロコが、いや、正確に書くなら「ウロコのようなもの」が落ちる描写の前に、サウロはイエスが神の子であることを理解したことが描かれていないことが注意すべき点だと感じました。つまり、文章上はウロコ(のようなもの、以下略)が落ちた後にサウロが理解したと読み取れるのが、今の日本での一般的な用法、即ち「理解したからウロコが落ちた」と違っていて興味深く感じました。

    なお、理解と目が見えるか見えないかを結び付けた表現も覚えておきたいところで、これを逆手にとったのがギリシャ悲劇の「オイディプス王」です。目が見えても真実はわからない、目が見えなくても真実がわかるといった話で、紀元前427年頃に書かれたと言われています。


    さて、目からウロコが落ちたと感じたのはどんな時か。おそらく、何らかの情報によって自分の考えが改まったときだと思います。その情報は文章によるものかもしれないし、話し言葉によるものかもしれない。目から入った情報に限らないことは、その「目からウロコが落ちた感覚」は、眼球の表面の感触というより、視覚を含めた脳の感覚によるところが大きい気がします。

    ただ、問題はその情報を受け取ったとき脳にどんな感覚が生じようと、それは正解や真実を示すものではないということです。むしろ「意表を突かれたものの納得した」といった反発と同意の落差に対して脳が「困難に対する成功体験」にも似た作用をしたのではないか。それは、思考を中断して、感覚が論理や理性を抑えつけたような瞬間のような気がします。

    そして、脳はおそらく滅多に体感しない刺激に弱い。その刺激を新鮮なものと肯定的に捉えてしまう。その結果、感情が釣られそのような感覚をもたらした情報に同意しやすくなってしまうのではないか、そんな気すらしてきます。これは、他者による情報のみならず、自分で考えて「閃いた!」と思ったときのも同様でしょう。

    また、これの弱いバージョンで「面白く感じた場合」も似た面があるのではないかと考えています。ある意見が聴き手を面白がらせるやり方で紹介される。その時聴き手が面白く、快く感じた方がその意見を受け入れやすくなる、そんなイメージがある。もしかしたら脳には、快くなったときに聴いた意見を、自分を快くしたが故に正しい、真実であると判定する傾向がいくらかはあるのかもしれない。もちろんこの場合もその快さの程度が正しさと合致しているかどうかは別であり、もし面白かった分それに伴う意見が受け入れられる傾向が見られるのなら、これもまた感覚が理性などを抑えつけた例だといえます。

    ここで思い出してほしいのが普段の飲食、特にお菓子や飲み物などの嗜好品を摂ったときのことで、甘い物を食べたときの甘ったるい感覚が頭に広がる感じや、辛いのものを食べたときの頭の熱さ、コーヒーでカフェインを摂ったときの頭にツンーと来る感触など、その程度でも脳の感覚は結構変わってしまうのですよね。

    それを考えると、何か食べた程度で変わってしまうような性質を持つ脳の感覚を真実の判定に使うべきではない、そうとしか言いようがないです。論理や理性より感覚による判断が重視される状況は宗教ぐらいしかないのではないか、とすら思えてきます(ただし、宗教の人知を超えた部分の真実性は誰も証明できない)。ただ、感覚によらず判断するのは難しい。特に即答を求められる場面ではそうだと思います。そして、新鮮な刺激や面白さをもたらしたから誤りだ、ともいえない。どうすればいいのか。

    それにはまず、自分の脳の快・不快などの感情によって引き起こされる感覚の程度や変化を客観的に捉えられるようにすることではないかと考えています。今、自分は普段より熱くなっているな、今日はなんだかイライラしてるな、紅茶を飲んだせいか気分が落ち着いてきたな、というように。もちろん四六時中そうである必要はないです。己を客観的に見るべき場面で使えれば十分ですので。

    そして、繰り返しになりますが、意見を判断する際には、その自覚した快・不快などの感覚を切り離すことを心掛けることでしょう。そう、目にウロコが入ったときこそ、その感覚に浸ることなく「危うい」と警戒するべきなのです。そして、快・不快に限らず感情は、特に強い感情は自分でもそう簡単に変えたり抑えたりすることは困難なので、その感覚が去って頭が冷めた後でじっくり考えること、それをよく心得ておいていただければと思うのです。

    先に宗教の例をあげましたが、もしかしたら、それ以外にも論理や理性より感覚が重視される状況もあるのかもしれない。その場合でも、できるだけ論理や理性と感覚のどちらを優先すべきか一呼吸置いて考えてから判断するべきであり、感覚にたやすく呑まれて論理を打ち切り理性を捨てて思考停止するのは、所詮「わかったつもり」の域を出ないので避けるべきであると思う次第です。
     
     
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  • 占いの効用について

    最近は朝の民放のバラエティーな感じの情報番組も雑誌も見てないのでわからないが、占いは今どうなっているのだろうか。今年はおみくじも引いてないこともあって、長いこと占いが縁遠くなってしまった。娯楽のための雑誌や番組はいいが、通常の報道も行うような情報番組では占いは場違いな気がする。しかし、占いならではの効用もおそらくある。それを幾つか思いついたのでここに記すことにした。

    言うまでもなく占いとは今日これからを含めた未来をより良く過ごすための行動などを示したものだが、その内容を大まかに言えば提案と警句だろう。運が向く行き先や行動、ラッキーカラーなどの助言が提案であり、避けた方がいい行為などについて述べたものが警句である。あとは、相性判断の類だろうか。それらの占いの根拠は、誕生日や血液型などの偶然による変えがたい属性によるものが主だろう。

    提案については、「期待」がキーワードだ。その提案は比較的簡単に達成できるはずで、日々懸命に働いて月収50万を越えれば幸せ、といった内容ではないはずだ。つまり、少ない労力で効果を得られることを示唆している。それを信じ、期待することで脳が活性化して頭がよく働くようになり気持ちも積極的になる、この面が大きいのではないだろうか。その結果、仕事でいい発想が浮かんだり、逆にミスに気付いたり、視野が広くなって普段なら見過ごしそうな路上の落とし物が目に入ったりするかもしれない。これは相性判断でも同じことがいえる。

    警句については、「慎重」がキーワードとなる。判断のために思考することで迂闊(うかつ)な行動が減り、危機を回避できるかもしれない。ただ、ここで気を付けたいことがある。行動の否定だ。ある行為については注意しよう、ぐらいなら先の効果が働くかもしれないが、その行為をするべきではない、という言葉は可能性を閉ざすだけなので聞き入れる価値が感じられない。特に相性判断にその危険性を感じる。人付き合いの相性は偶然による属性よりも実際の言動のやり取りによるところが大きいからだ。その言動はその人の資質と育ってきた環境の影響なので、そこに占いの根拠が介入できる余地はほとんどないはずである。

    さて、ここでもう一つ書いておきたいことがある。占いの当たり外れについてだ。占いが当たったか外れたか、言い換えれば幸運が訪れたか、不幸に遭ったかの判断は、本人の主観、判断によるところがほとんどだろう。そこそこ客が入るカフェに行って、お気に入りの席が空いていたとする。人によってはそれが普通かもしれないし、あるいは運が良かった、占いが当たったと感じるかもしれない。また、いつも買っている商品が品切れだったとする。こちらも、よくあることだと捉える人もいれば、運が悪かった、占いが当たってしまったと思うかもしれない。となると、占いの当たり外れは、当人が占いを信じるかどうか、都合よく解釈するかどうかによるところが大きい。

    ただ、占いの根拠は先に述べたように偶然による変えがたい属性によるものが主なので、真っ当なものとは言い難い。なので、それらの根拠を本当に信じ込む人はあまり居ないと思う。よって、次のような言い方をせざるを得ない。占いを信じる人にとっては、占いによる効用によってその分幸せになった。このことは、占いの概念がない世界よりは良かったのではないか、と。

    占いによって幸せになるために無理して占いの根拠を信じようとするのは感心しない。落ち着いて考えてみて、きちんと相手にするだけの思想でなければ相手にしないほうがいい。無理をして信じようとしても心に負担がかかって辛くなるだけだ。その辛さは、おそらく先に述べた占いによる効用を上回ることだろう。無理して信じるのは常時でかつ精神の根幹に関わることだが、占いの効用が現れる頻度はそんなに多くなく、その幸運の程度も所詮は偶然で少しいいことがあった、ぐらいのものではないだろうか。それが努力による幸運より確かなものとは思えない。

    最後に、繰り返しになるが警句の範疇(はんちゅう)を越えた否定的な言辞、選択肢を狭める文言にはくれぐれも気を付けたい。これだけは、占いを信じることが幸せから遠ざかる負の要素だろう。どうしても気になるのなら、占いの文句を抜きにしてじっくり考えることだ。何事も、最善を尽くして取り組んだほうが、仮に上手くいかなかったとしても後悔は少ないはずだからだ。

    とりあえずこの記事は以上です。何かあったら付け足します。
     
     
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  • 宗教に織り込まれた信仰心を加速するシステムについて

    それにしても宗教はすごい。おそらく人類にとって最も興味を惹き付けてきた存在だろう。宗教に基づく熱意は、日常の儀礼や非日常の祝祭の行事など様々な形で、時に静かに、時に賑やかに現れている。日曜日の教会での礼拝、バグダッドへの聖地巡礼、除夜の鐘、初詣など枚挙に暇(いとま)がない。そして、その影響力によって多くの人が救われ、多くの人が殺された。十字軍然り、イスラム国(イスラミック・ステート(IS・ISIL)、ダーイシュとも)然りである。

    宗教がここまで人々を動かしたのは、何と言っても「死後の世界における安全・安心の確約」の概念を発明したのが大きい。ほぼそうとしか思えない。よくぞ「死後の世界」などという、途方もない設定を考え出したものだ。この前提となる「(肉体から分離した)魂」と併せて考えると、人間の想像力はあまりにも卓越していることを感じずにはいられない。これは死後の世界の亜種ともいえる「輪廻転生」もそうで、死後、何かに生まれ変わるだなんて、そんな続きが気になる設定を創造したことに深く感心する。おそらく、死後の他者や自分の意識、心がどこかにあって欲しいという願望とともに考え抜いた結果なのだろう。死者の心が自分の感知できない、そして自分の望む所へ……例えば、親切だった人は安らかな所へ、危害を加えた人はその罰を受ける所へ向かってほしいと思えば、それが天国、あるいは地獄になる。輪廻転生には、身近な生き物に宿ってでもそばにいて欲しいといった要素も入っているように感じられる。睡眠時の夢や臨死体験での幻覚がその想像に作用した可能性もあるが、今となっては、その過程を知る由もない。

    これらの「死後の世界の安全・安心の確約」が宗教たるものの太い中心軸であり、人間にとっての最大の関心事であろう。宗教の対象として他に「現世利益」があるが、これは幾分求心力が弱く感じられる。ここに宗教についての一つの鍵があるように思える。大抵の人にとっては現世利益より死後の世界の安心・安全のほうが重大だが、確かに存在して叶う可能性が高いことよりも、存在が未確定なものに関することを願うこと……「信じる」ことに対して熱心であることに、重大性に収まらない理由があるような気がしてならない。

    それを一言でいうなら、人間には、途方もないことを、そしてそれを未確定なまま信じるほうが気持ち良く感じる性質が備わっているのではないだろうか。

    自分自身に関して言うなら、フェルマーの最終定理に対してある種のロマンを感じた覚えがある。もちろん証明される前の話である。x^n+y^n=z^n(nは自然数でn≧3)を満たす整数は存在しない。ワイルズによる論文の正しさが認定されたのは1995年であるが(*1)、それまでは「そうなのかもしれないが、本当にそうなのか」と、数の世界の不思議さと遠大さを想い、証明に関するニュースを聞く度に期待と不安が入り混じった気分になった。未確定だからこそ、その可能性を信じることが不安を打ち消すほどの期待の強さ、すなわち気持ち良さにつながり、その対象が大きいほどその度合いが強まる、あの時のことを思うとそう考えるのが最も適切なように思える。

    その概念的な分野における、大きな対象の究極が神などの超越的な存在であり、そして「死後の世界」なのだろう。設定が大きく、遠くなるほど存在に対する期待が膨らみ、そして証明までの距離は遠くなる。つまり、信者にとってはいつまでも、それこそ世代を超えても対象の存在が未確定のままで信じることができる。また、その距離の遠さは「強く」信じることを要請されているといえる。強く信じなければ、その対象を心に重ね合わせられないからだ。加えて、共同体の一員でなければ生きられなかった時代であれば周囲の宗教に合わせるのはそれこそ必然であり、住む所や職業の選択肢などが少ないことが更に信仰心を強く保つことに作用したものと思われる。

    そうして信じている間、祈っている間は夢見心地なのと近い感覚にある気がする。現実を離れ、意識をそこまで没入するからこそ対象と深く結びついて満足感、充足感が得られる。これをある種の快感に分類しても、そう大きくずれてはいないはずだ。あるいは、こうも考える。人類が、信じたり祈ったり願ったりする度にひどい頭痛がするような体質であれば、宗教は身近な存在になり得たであろうか。何事も、強く信じる行為自体にはある程度の心地良さが入り混じる。その心地良さ自体は、マッサージを受けたときに得られる体感によるものと本質的には変わりないのではないか。しかし、願うにせよ祈るにせよ信じるにせよ、自分の意思によって引き起こした点において、その感覚が体感によるものと類似しているという意識は生じないまま、満足感、充足感、そして達成感が残る。信じるということを考えると、そう思えてならない。

    達成感については、重要な要素のように思えるのでもう少し考えてみる。日々の日課として、お祈りなどの宗教的行為を行ったとする。仕事のように目に見える成果が求められるわけではないので、時間さえあれば可能な、比較的簡単に成し得る行為だといえる。そして、お祈りの最中の満足感、充足感にその終了時の達成感が加わる。小さいながらも、成功体験ともいえるだろう。その行為を繰り返すことでどうなるか。

    「報酬系」という言葉がある。脳の働きについての表現で、報酬とは脳の快感のことであり、食事や称賛の他に達成感によるものも含まれる。報酬系とは、報酬とそれに関連する行動の変化のことで、刺激とそこから得られる情動との連合を学習し、予測に基づいて適切な(例・報酬が最大になるような)行動を選択すると言われている。その予測の結果生じたやる気も報酬系の行動の変化のうちに含まれる。また、記憶とも密接に関与し、受けた感覚情報を過去のものと参照して評価することにも関わってくる。そして、予想より良い結果を得られた場合は報酬を得るための脳の働きが強化され、逆に得られなかった場合はその働きが弱くなる、予測誤差仮説も提唱されている(*2)。

    もしかしたら、恒常的にかつ真摯に超越的な存在に向き合うことや、生きている間にはたどり着けない遠い世界に思いを馳せることによって、些細な達成感であっても幾ばくかは脳内のシステムが信仰心の強化に寄与することが生じているのかもしれない。日頃の習性による心情の変化が脳の作用としてどの程度説明され得るのか、もう少し詳細な情報がほしいところではある。

    信仰心、というか実在を信じる心情についてもう少し書いておきたい。超越的な存在や死後の世界の知識を得ても、始めからそれを丸々信じる人は少ないと思う。しかし、人間は意志によって何らかの行為を行う一方で、行為を行うことによって意志(心)が追随し形成される、そんな側面もあるように思える。つらいときでも作り笑いをすることで、ひと時でも心がほぐれる、そんなことはないだろうか。簡単な宗教儀式、例えば鳥居の前で礼をするとかでも、もしかしたらそこに神が居るかもしれない、少しだけ、そんな気分にはなる。そのような行為を繰り返すことで、実在感が強くなる、そんな作用もあるのかもしれない。そしてそれは、神が誰でもわかるように観測されないからこそ、超越的な存在を実在するように思える特別な感覚を持つ自分は特別な存在である、という感情、ある種の快感もまた実在を信じる心情を補強し、超越的な存在や死後の世界が更に確固たるものに思えてくる。そんな思考が芽生え、定着してもそう不自然だとは思えない。

    少し話をまとめてみる。宗教は「死後の世界」や「超越的な存在」といった強く興味を惹く概念を創造した。それらは人々の希望であると同時に、証明できない性質を持ち合わせている。宗教的行為は人を心地良くさせ、更に、証明できない性質であるが故に対象に対する強い信仰心が求められ、それに応えるように強い信仰心が形成される。宗教的行為の反復ならびに設定を肯定する宗教的行為自体に、信仰心が強化される性質がある可能性もある。

    これらの点において、考えておきたいことがある。人類は、今後宗教とどう付き合うか。冒頭で述べたように、宗教によって多くの人が殺されている。これを抑止するためにはどうすればいいか。人類が、永遠の死後の世界を夢見るという無上の愉しみを、希望を手放せるわけがない。しかし、何らかの節度を設け、心掛けることで攻撃的な精神を緩和することはできないものかと思う。二つ考えてみた。

    一つは、周囲に対する感謝の念の強調である。「上に祈る前に、周りにできるだけの感謝を」。どう考えてもこの世界で生きていくためには、一人では生きられない以上、存在するかどうか確定できない何かより現実に存在している人間を意識したほうがいい。そして、周囲、つまり対象となる自分に関わる人間をより多く想像することを心掛けた上でこの感謝を続けることで、次第にその人間の範囲が直接的に関与している人から間接的に関係している人まで、当然海外の国にまで広がっていくことだろう。そこで、他者でしかなかった人間が自分に関与していたことに気が付いたとき、その攻撃の手も幾分緩むのではないだろうか。

    もう一つは、人間には先に述べた宗教的行為の反復により、信仰心が強くなる性質がある可能性の自覚である。継続による変容と行動による変容を知識として蓄えること。そして、自分の信仰心の深化を客観的な視点で観測すること。これらを合わせて考えることで、死後の世界や超越的な存在の確信が人間ならではの「性質」に過ぎないと捉えられれば、宗教的価値が至上のものではなくなり、それに基づく他者への攻撃も抑えられるのではないかと思う。もしかしたら、他者への善意も控えめになるかもしれないが、それは宗教的価値に基づかなくても可能なはずだ。

    この二つを、公的な教育機関などで広く伝えられないかと思う。教義を直接否定しているわけではないから、既存の宗教と強く反発する要素はないはずだ。だが、同時に難しい問題なんだろうな、とも思う。真っ当な筋道の理屈抜きに、教義に対する帰依を、精神的に従うことを要請するのが宗教だからだ。人との結び付きより超越的な存在との結び付きを重視し、人の心に対して俗世よりも架空の素晴らしい世界への跳躍を志すのが宗教だからだ。

    そして、宗教的価値はその宗教を信奉する仲間内で価値があることと、その価値が他者に影響を及ぼす際には他者から反発される可能性があること。これらも広まってほしいと思うが、宗教全ての否定と思われかねないので難しい面もある。また、これらは他の価値についてもかなり当てはまることかもしれないが、念のためここでは保留しておく。

    上記の対策と心構えを根付かせるのは容易ではないだろう。残念ながら、これ以上はいいアイデアはない。あとは、世界に対する権威となりうる、国連による推奨や(できれば世界中の)マスコミによる連携したキャンペーンが望ましい、ぐらいしか思いつかない。

    そして、これから人類は宗教とどう付き合うべきか。先の対策と心構え、そして改めて宗教の設定を架空のものだと自覚した上で深入りし、宗教ならではの死後の世界などの思考に浸りつつ現実の生活と折り合いをつける、それを目指すのが最善だろう。

    *1 https://www.js.kuas.ac.jp/shs/blog/2016/03/08/%E8%B6%85%E6%95%B0%E5%AD%A6/ の『「科学と芸術」第5弾 フェルマーの最終定理 2018年9月』のPDF、https://www.js.kuas.ac.jp/shs/wp/img/2018/06/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%9C%80%E7%B5%82%E5%AE%9A%E7%90%86-3.pdf より
    なお、この手の数学の未解決問題は他にも多数ある。例えば、3と5、11と13、29と31のような差が2である素数(1とその数以外では割り切れない、2以上の自然数)の組、双子素数は無限に存在するか、というのはどうだろう。「数学 未解決問題」でインターネットを検索すれば、このような問題を色々と目にすることができる。

    *2 毛内拡 著『脳を司る「脳」』P127(講談社ブルーバックス)、五反田ストレスケアクリニック『ドーパミンシリーズ3:ドーパミンと報酬系の仕組み~「やる気」と「快楽」を生み出すメカニズム~』 https://gotanda-seishinka.com/column/%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA%EF%BC%93%EF%BC%9A%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%81%A8%E5%A0%B1%E9%85%AC%E7%B3%BB%E3%81%AE%E4%BB%95/

    とりあえずこの記事は以上です。何かあったら付け足します。
     
     
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