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  • 芸能人が政治を語ることについて

    芸能人が政治的な発言をするとインターネットが騒がしくなる昨今だが、今回はそれに関することについて書いてみる。いわゆるテレビのバラエティ番組に出るような芸能人に限らずとも、芸事、つまりは作品づくりによって生活している人についても幾分かはあてはまることだろう。

    まず、芸能人にとって、支持政党や政治問題を語ることで芸能活動が有利になることはほとんどないと思われる。これは、そのような芸能人に対する態度を想像すればわかりやすい。例えば、自分と政治的傾向が似ている芸能人について、それだけの理由でファンになったり、芸能活動に接したりすることはおそらくないはずだ。芸能活動に接するのはその人の芸が面白いからだとか好きだとかでその芸を味わいたいからであって、政治的傾向が似ていてもその人の芸に関心がなかったり、芸風が合わなかったり、その芸が下手だったりしたら見てみようとは思わないものと思われる。

    しかし、この逆は大いにありうる。ある芸能人が政治的見解を表明して、その傾向が自分と違っていたらどうなるか。そう、「敵に回る」のである。その芸能人について、わざわざX(旧Twitter)で「出演するな」「役を降りてほしい」「もう見ない」とか言い出したりする。今までどうとも思っておらず、それ故その芸能人について語ることもなかったのにも関わらず。独り言のように言うのは勝手だが、乱暴な言葉を本人に伝えるのはやり過ぎだ。これらはインターネットによって心情を吐露しやすくなり、それが可視化された結果だが、インターネットがなくても反発心から同様な心理になるのではないだろうか。そこには、自分が支持することでその芸人の収入になり、その収入の一部がが自分が支持できない政党や政治家に寄付される、といった面もあるのかもしれない。

    つまり、芸能人が政治を語っても味方が増えるわけではないが敵は生じてしまい、(おそらく軽度の)憎悪の対象になる確率が高い、というかほとんどそうなるとしか思えない。よって、芸能人が政治を語る利点はその職業上はないとしか言いようがない。

    更に言うなら、芸と言うものの大半は一時(いっとき)でも政治を含む俗世から離れて(もちろん現実の政治を題材に採ることもあるが)架空の世界を愉しむものなので、演者、芸能人の政治色が濃い分、鑑賞者にとってはそれが余計な情報、雑音になり芸の世界への没入を妨げる要因になってしまう。ただでさえ人の心を対象とした職業であり、何が理由で好かれたり嫌われたりするか理由付けが難しい、理不尽なこともあるはずなのに。そのような意味でも、政治に関連した要素は芸の障害でしかないと言える。

    以上が私が考察した日本の現状で、大きく外れてはいないと思う。そして、そこから先はその芸能人の生き方の問題と受け取るしかない。不利を承知で政治について言及を続けるのなら、もうそこに他者が介入できる余地はない。そして、芸を頼りに身を立てているのなら、その芸に誇りを持ち政治思想が原因で離れて行った人の心をも己の芸で客として引き戻してみせる、という心意気は別に矛盾しておらず、成り立つ心情である。

    そのことに関連して語っておきたいことがある。政治的立場の表明は成人において、特に芸能人、有名人のような大衆を相手とする知名度が高い人にとって社会的責務か否か。これはどちらでもいいと思う。つまり、それを社会的責務と見なす社会があってもいいし、別に立場を表明しなくてもいい社会であってもいい。何故なら、どちら(の傾向)の社会がその成員にとって幸福かは、その成員の性質の差によって変わるからだ。

    有名人の政治的立場がわかる(代わりに芸に没入しづらい)社会か、芸に没入しやすい(代わりに政治的立場は不明な)社会か。ここで、社会の成員に問われる性質は二つある。一つ目は、政治的立場の表明と芸への没入のどちらを重視するかの価値観であり、二つ目は、政治的立場の表明が芸への没入の妨げになるかならないかの性分である。この二つの性質の程度によって、社会が幸福になるのに最適な、政治的立場を表明することの社会的責務の程度が定まるのだろう。

    一つ目の価値観については明らかに嗜好だが、二つ目の性分についてはどうだろうか。理屈ではなく感情に訴える芸事に関しては、鑑賞する側からすれば、そこから人格(の強い要素)を切り離して考えるのは不自然で相当難しいように感じる。ここでは坊主憎けりゃ袈裟まで憎いという諺が否定しがたく立ちはだかる。よって、この二つ目の性分についても一つ目の価値観と同様に嗜好であり、理屈による説得等によって変えるのは困難だ。これより、政治的立場の表明の社会的責務の程度が異なっても、幸福度が同じなら社会全体の優劣はつけるべきではなく、社会としての性質が異なるだけの話だと考えたほうが適切なように思われる。

    ここで、政治的立場の表明の社会的責務とは別として、ある人の政治的立場の表明によって聴き手はその人のそれ以外の事象(例えば、ある人が芸能人ならその芸に接すること)を避けるべきではない(芸能人の政治的発言と芸事は切り離して考えるべき)、と規定された世の中の方が、言いたいことが言いやすいから社会全体としては幸福なのではないか、という論点についても書いておく。それはおそらく、政治的立場を表明したい人にとっては幸福かもしれないが、聴き手にとってはそうでもない気がする。意見を聞く側からすると、憧れの人や親しい人が自分と反対の政治信条の場合はそれを聞く機会も増えることになる。そこで多少なりとも嫌な気持ちになるのが通常であり、それがさして気にならない聖人が大半を占める社会は想像できない。

    そこに先の「それ以外の事象を避けるべきではない」といった先の規定が加わるとどうなるか。会うのを避けたいほど意見の異なる人間に対しては相応の対応をしたいのが自然であり、その規定によって心理的に抵抗が生じそうな状況では欲求不満が溜まらないか気掛かりだ。この規定は、少々表明する側に寄った見方のような気がする。聴く必要性のない、聴きたくない意見を聞く機会を減らす知恵もあっていいと思う。政治的立場の表明に対してどのような態度をとるべきか、どのような態度まで許されるべきかはその社会の成員が決めればいいことに過ぎない。そして、その態度が乖離している二つの社会を想定すれば、この二つの社会もまた、幸福度が同じなら優劣ではなく成員の性質の違いであると捉えたほうが適切だろう。

    これ以上はもう、好き嫌いでしか語れないことだと思う。私は政治的立場と芸事はある程度切り離して考えられる方だとは思うものの、どちらかというと芸を味わいたい方なので芸能人が政治的立場を表明しなくても責められることのない社会の方を、そして芸能人などの政治信条が合わなかったら現状(2026年2月の日本)の大多数と(おそらく)同様に、それを理由に避けたい場合は(と、ここまで長々と書いてはきたが、よくよく考えてみるとそんな場合はおそらくないのだろうけれど)接するのを避けたり、そのことをぶつくさインターネット上で表明しても四の五の言われない社会を望んでます。
     
     
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  • 音楽に政治が持ち込まれた時には

    時折、ミュージシャンが政治的主張をステージで行ったり、インタビューで発言した際に、インターネットで音楽に政治を持ち込むなという意見を見かけることがあるが、それは所詮その主張が気に入らないことを表明したということに過ぎない。ミュージシャンが自分の好む政治的主張を行った際には、そのような発言はしないはずだ。自分の気に入らない政治的主張を自分よりはるかに拡散力が大きい人物が行い、発言がニュースで取り上げられて広く賛同を集めるような事態は阻止したい。その気持ちが、先の意見につながっていったのだろう。

    では、音楽と政治はどのようにあるべきか。いや、この際だから音楽のみならぬ芸術作品全てについて考えるべきである。なぜなら、音楽を含むこれらの芸術作品には、評論のような表現とは一線を画す特徴があるからだ。それは、評論が確かな根拠に基づき理屈や論理によって組み立てられて理性による理解、納得を求めるものであるのに対し、芸術作品は人の持つ感覚に訴え感銘を受けさせることで満足を求めるということだ。

    もちろん、全ての作品、表現がはっきりと二分されるわけではない。芸術と評論の割合が2:8や6:4や5:5の作品や表現もあるだろう。芸術作品として展示されているから評論の要素がないとは限らないし、評論として発表されているから芸術作品の要素がないとも限らない。そこは注意しなければならない。

    まず、政治の立場から考えてみる。政治の源として熱意がある。その国に住む人々の多数の幸福を叶え、守るための熱意が。その熱意を無駄にしないためには、法律などを定めたり予算を見積もったりといった作業は理性によって冷静かつ冷徹に検討され、議論され、計算されて決めるのが肝心である。より栄えようとする経済発展にしろ、弱者に寄り添う福祉にしろそれは変わらない。目的達成のための政策の発案から実行までの過程に、芸術作品による、理性が隔絶された感銘の入る余地はない。よって、政策に関する主張も、聴き手が冷静に判断するために感銘の要素を抜きにして行われるべきであると思われるが、そうではない。そこで終わる話ではない。

    あるミュージシャンが政治的主張を行った場合を考えてみる。もちろん、そのミュージシャンは政治の専門家ではないとする。この場合、あの憧れの人がそう言っているのだから、それだけでその意見が正しいと思う人が出て来る。あの人に嫌われたくない、気に入られたい、近づきたいといった感情もそこに幾分かはあるのかもしれない。ミュージシャンの立場からすれば、聴き手を魅了して政治的な意見に影響を与えるほど芸の力がある、ともいえる。

    よって、魅了された心は政治について冷徹な検討を行うことなく、良し悪し(みんなを長期的に幸福にするかどうか)よりも好き嫌いで(それも、政策の好き嫌いではなくミュージシャンの嗜好に合わせるという意味で)、政策を決定し、投票行動などに反映することだろう。傍から見れば、芸術によって心を動かされるのは真っ当な思考の邪魔でしかないように見える。

    このような状況とどのように付き合うべきなのだろうか。言うまでもなく、ミュージシャンなどによる政治的主張は自由に行われるべきである。誰もが言いたいことが言えるのが幸福につながるからだ。よって、この題材は全て受け取る側、聴き手の側で対応すべき問題であるといえる。

    我々は、政治的意見というのをどのように受け取って考えるべきか。答えは見えている。誰が言ったかは関係ない。どのように言われたかも関係ない。意見を、他の要素を取り払い、意見「だけ」そのまま受け取って検討し、判断すべきなのである。政治について知見のあるものでも間違っている場合がある。政治を知らない者でも正しい場合がある。だから、意見をそのまま受け取って、どの意見も同じように検討して逐一判断するのが正しい方法である。

    そして、それは困難であり、ほぼ不可能だといえる。意見の量に対する個人の処理能力などたかが知れているからだ。実際、仕事をしているだけでも、関心のある政治的問題について国会やその委員会の審議や省内の会議の議事録、関連した論文を読む時間をとるのはかなり難しいだろう。時間があったとしても一日仕事をやり通したら、その仕事で疲れた頭を更に働かせるのは耐えられないはずだ。通勤時の列車が混んでいたらそれだけでストレスが溜まって思考できる余地はなくなる。更にこれに子育てが加わったら政治について考えるのはほぼ無理なのではないだろうか。意見の中には取るに足らないものもあるだろう。それらを全て相手にできる人間が想像できない。フルマラソンの後にフルマラソンをするような、そんな光景が浮かぶ。

    よって、自分で突き詰めて考えることができない以上は、「政治的主張の信憑性が同程度であれば」結局のところ肩書や前歴、実績に頼って判断するしかなくなる。いわば経験則による納得である。それを堂々と肯定するわけにはいかない。これもまた、完全に理性による検討とは言い難く、それを行えないから仕方がなくその手段を取っているのに過ぎないからだ。実績などがある者の意見のほうが、それがない者の意見より正しい確率が高い、それだけのことだ。

    それは「弱さ」であるとしか言いようがない。それをじっくり自覚する必要がある。その問題の専門家ではない自分は弱い。その政策について自分なりの見識を持ち語れるにまで至れない自分は弱い。それを噛み締めなければならない。

    これについては、世間一般の人について当てはまることだと思われる。政治の大半の領域について弱くないといえる人はおそらくいまい。そして、その微かな政策に対する論理解析と経験則を基にした意見集合の多寡で世の中が動いてゆく。私としては、政治に関与し議題や議員の決定権を持つこと自体が私的財産の所有などと同じ意味での幸福権の一種である面もあると考えているが、大多数が参加する選挙(投票)というシステムはその意味だけではなく、その方法がみんなが幸福になる(あるいは、不幸にならない)確率が高い、ということで続いてきたのではないかと思えてくる。不満も誤りも多い世の中だが、下手するともっと悲惨な目にあったかもしれない。そう考えると、現状の大多数による投票より優れた政策決定の仕組みというのも考えづらい。(書いていて思ったが、これも経験則による判断だ。もし、有力な政策決定の方法が編み出されたら、厳密かつ悪影響を及ぼさない範囲での実証が要することになる。)

    繰り返しになるが、全ての意見をそのまま受け取って判断するのが最善であり、実績などに頼るのはあくまでもやむを得ない手段である。今の時点でこの考え方が周知されているとは思えない。ただ、これが一般常識となり、誰もが他の人もこの考え方であることを認識している世の中になれば、ミュージシャンのような意見の拡散力がある人が政治的主張をしようと騒ぐことはなくなるだろう。誰の発言であっても同等に検討することが徹底されれば、憧れの人の意見であっても憧れであることが理由で支持することもなくなり、かつ、それが全体的に理解されているはずだからだ。その後で、根拠に基づいた理屈や論理がしっかりしたほうを選ぶようになれば、民主主義もより良く機能するに違いない。

    ただ、「意見だけをそのまま受け取って検討し、判断する」というのは、それが「一旦、その場においては」の意味合いであっても、権威、つまりは肩書や前歴、実績の否定になるので学校教育などの公的機関からは言いづらそうな意見ではある。この見方を広めるためには、民間のマスコミやこのようなブログで折につけ触れ、発言するのが最善だろうか。それこそ拡散力の大きい、ミュージシャンとかが。
     
     
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  • 参政党が好きな人におすすめの本

    本棚にあったので久しぶりに読んだのですが、本当におすすめできる本でした。

    山中恒 著「子どもたちの太平洋戦争 -国民学校の時代-」(岩波新書)


    というのも、今回の選挙で参政党に一票入れたい人はご存知だと思いますが、同党の新日本憲法(構想案)には以下のような文言があるのですね。
     
    ——引用開始——
     
    前文より
    (略)
    天皇は、いにしえより国をしらすこと悠久であり、国民を慈しみ、その安寧と幸せを祈り、国民もまた天皇を敬慕し、国全体が家族のように助け合って暮らす。(略)これが今も続く日本の國體である。
    (以下略、「國體」は「国体」の旧字体による表現)

    第一章 天皇

    (天皇)
    第一条 日本は、天皇のしらす(2)君民一体(3)の国家である。
    2 天皇は、国の伝統の祭祀を主宰(4)し、国民を統合する。
    3 天皇は、国民の幸せを祈る神聖な存在(5)として侵してはならない。

    (2)しらすとは、国民の実情を広く知って日本を治める意味の古語である。
    (3)君民一体とは、天皇と国民が一体となって国を治める意味をいう。
    (4)大嘗祭、新嘗祭などは国の公式の祭祀となる。
    (5)神聖は君主の属性でもあり、皇祖皇宗の神霊と一体として詔勅を発し、祭祀を主宰する事実による。

    ——引用終了——

    ここで「国民もまた天皇を敬慕し、」と義務のように書かれるとちょっと待てと思うわけです。そして、憲法に書いてあれば何らかの形で法律に反映されるはずです。敬慕の義務化が。現行の日本国憲法の前文が法律に反映されていなくても今後はそうとも限らない。どこかで前文を法案に反映しないことを明文化するまでは油断ならない、というのが私の考えです。

    それに、国家権力の指示による敬慕は真に敬慕といえるのか、といった問いもあります。感情は指示で変えられるものなのか。指示で変えられるのは行動のみであり、それは所詮「敬慕するふり」に過ぎないのではないか。仮に敬慕の言葉を強制的に連呼させることで心が変えられるとしても、その場合国民の精神にふさわしい健全さは保たれているのか。敬慕しないことで不利益にならなくても敬う情が湧いてくること、それこそが敬慕と呼べるのではないか。

    第一条と2については、どう考えても天皇をそれ以外の国民の上に置く考え方で溢れています。「しらす(日本を治める)」「君民」「国民を統合する」。私としては、ここまで自分が誰かよりも下の存在だとはっきり書かれるのは抵抗があります。3も同様で、「神聖」「侵してはならない」と特別な存在に祭り上げているのですが、ここで自分たちが暗に「神聖でも侵してはならない存在でもない」とされていることに理不尽と不条理と怒りを感じられるかが今後の大きな岐路になると思います。

    私は、これら条文の先には天皇の名における非常に窮屈な世の中が待っていると考えてます。常日頃から皇族に気を遣い、行動にも気を配らなければならない世の中が。

    ただ、具体的に何が起こるのか想像するのは難しいと思います。急にそんなこと言われても、というのが正直なところでしょう。そこで比較的近い歴史から学ぼう、というのがこの本を取り上げた理由です。

    本書のP18、19に、1940年(昭和15年)以降の日本で起きた、今では考えられない出来事が紹介されています。

    ——引用開始——

    天皇に関して、この作文のなかに、ラジオの実況放送のことが出てくるが、当時は、天皇の声は電波にのせることが許されていなかったのである。ラジオ放送を聴くものがすべて、直立不動の姿勢をとっているとは限らない、病床で寝ながら、それを聴くものもいるであろう、そのようなことがあっては、天皇陛下に対し奉(たてまつ)りまことに恐れ多いことであるからというので、天皇の声は放送されなかった。(P18)

    (略)陸軍特別大演習というのがあり、天皇が私たちの町へ立ち寄ることになった。駅の近辺の家で、二階に寝ていた病人は警察官立ち会いのもとに、みんな一階へ移された。天皇より高い位置で寝そべっていることは、天皇に対して恐れ多いというのであった。(P18)

    (略)ニュース映画に天皇や皇族が登場する場合、予め字幕で「脱帽」と出た。観客はこれを見たら、単に脱帽するばかりではなく、姿勢を正して画面を拝観せねばならなかった。その「脱帽」の字幕を見て「やれやれ!」といったのを特高警察に聴かれて検挙され、不敬罪で起訴された人たちのことなどが『特高月報』の〈不敬言辞〉の欄に、うんざりするほど記録されている。(P18、19)

    ——引用終了——

    また、P59には天皇機関説を唱えた憲法学者かつ貴族院議員の美濃部達吉が議員を辞任させられた経緯が書かれています。天皇機関説とは、コトバンクの表記を元にまとめると「主権は国家にあるので、天皇は法人としての国家の最高機関だが主権者ではない」といった説で、天皇を学問的に議論の対象にしただけで多大な不利益を受けた例もあったわけです。

    つまり、たった一人を特別扱いすることを決めただけであっても、それが突き詰められることでものすごく過ごしづらい世の中になるかもしれない。それは、通ってほしくない法案を止めるのがいかに困難か、不可能に近いかを考えていただければ思い当たることもあるのではないかと思います。

    なお、上記の憲法案のような天皇崇拝の空気が広まれば、その中から今よりも更に天皇を敬うが故に堅苦しい状況を望み、実践に動く人も続々出て来るのではないか、そんな危惧もしています。それなら、そのような方向に行かないように努めたほうがいいのではないかと思うのです。日本国憲法第十二条の「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」にはそのような意味合いも込められていると考えています。

    また、本書には当時の子どもたちの作文も少し掲載されています。その中で、「恐らく、かなりの量の教師の添削があった」と述べられているものの、世界観が日本神話に染まった子どもの作文が載せられていて(P22-25)、途中で「思うと紀元二千六百年は、神武天皇様が国をおはじめになった昔を目の前に見る様なわけで深く尊く感じられます。」という表現があって、こういう考え方しか許されなかった子どもが大半だとしたら、本当にみんな心が狭苦しかったのではないかと思うわけです。

    更に、授業前の唱和と暗記が(尋常小学校)三年生のころから強制された「天壌無窮の神勅(てんじょうむきゅうのしんちょく)」の説明もあります(P29)。神勅自体の内容は以下の通りです。

    「豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の国は、是れ吾(あ)が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。宜しく爾皇孫就(いましすめみまゆ)きて治(しら)せ。行矣(さきくませ)。宝祚(あまつひつぎ)の隆(さかえ)まさんこと、当(まさ)に天壌(あめつち)と窮(きわま)りなかるべし」

    そして、〈国体〉とはこの神勅による日本が万世一系の天皇に統治されることの決定を受けた政治体制であり、この神勅は日本人であれば信じなければならないとされたので、大人もまた心が狭苦しかった部分があったのではないかと思うのです。

    ここで、宗教という「現実と言い張るよくできたフィクション」の持つ、「心をつらい現世から逃して架空の世界にしばらく置くことで充実を図る役割」に着目する必要があります。改めて書くなら、崇拝の対象に宗教性があるとこの宗教の世界まで圧迫されて心の逃げ場がなくなる、そんな気がします。そしてそれは、宗教的世界、つまり心も支配されることになることをひしひしと感じます。たった一人を特別に扱うことで、やがては行動も心も支配されかねない。その危険性を、一旦そうなったら元に戻すことは相当困難だと思われるのとともに、重々感じていただければと願うばかりです。

    本書の主体は題名の通り、太平洋戦争の時代の子どもたちの生活を描いたものです。そして、そのそこかしこに天皇の影響が表出する。天皇陛下に忠義を尽くすことを作文に書いたり(P8)、口頭試問で礼拝の仕方や、君が代を歌っている時、聞いている時の気持などを問われたりする(P166)。絶対に逆らえない存在を設けてその下に自分を置くことが幸せを招くとは思えません。

    私としては、今後有権者が舵取りを誤ったら再度そのような世の中になっても不思議ではないと考えています。客観的には今の状態から近いうちにそうなるとは思えないし、同様にそう思っている人が大半でしょう。それでも、そこに安住して警句を発するための努力を怠(おこた)れば、大袈裟でいい気分になれる意見に引きずられ、意志が強くて声の大きい人たちが望むような世の中になってしまう気がしてなりません。

    それを防ぐためには信頼性のある情報を見極めて学び続けるしかないのですが、それが難しい日常も存在する。となると、無知の知を徹底するしかないのではないかと思うわけです。自分が他人に説明できるほど詳しくなければ、賛同するのはしばらく保留する。聴いていて気持ちが良くなる意見が、将来的に正解とは限らないことを覚えておいていただければと思います。

    同じ意味合いで、この記事を紹介しておきます。

    選挙の前にたしかめて 生成AIの選挙動画に注意! NHK ONE 2026年1月30日

    あと、この本のいいところは何と言っても読みやすいことです。子どもの視点を織り交ぜながら書かれていることもあり手軽に読めるので、通勤時、特に帰宅時のように難しいことを考えたくないときでも読み進めることができるのは、大きな利点だと思います。岩波書店のサイトでは品切れで電子書籍もないようなので(2026年2月1日現在)、上のAmazonの他に中古で入手できるリンクを以下に貼っておきます。この類の本に目を通したことがない人ほど新しい発見が待っているはずなので、是非この機会に一歩踏み込んでいただければと思います。

    ブックオフオンライン
    ネットオフ
    日本の古本屋※
    ヤフーオークション※
    メルカリ※
    ※:書名が類似した別の本もあるので注意
     
     
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  • 金融庁の審議会報告書 不足する年金2000万円の内訳

    野党と、この件で野党に肯定的なマスコミに今一度問いたい。本当にこのまま麻生太郎金融相を追求していいのか、と。

    金融庁「老後資金2000万円不足」報告書の根底にある政府の大きな問題点
    老後の生活費の不足分は30年で2000万円に、金融庁がまとめた日本人のお金の危機的状況点

    上記の記事によると発端は今年2019年6月3日の金融庁の報告書とのことで、それはこちらの「金融審議会 『市場ワーキング・グループ』報告書 の公表について」から読むことができます。「(別紙1) 金融審議会 市場ワーキング・グループ報告書『高齢社会における資産形成・管理』」がその報告書です。

    全51ページのこの報告書のP10(PDF上では15/56)に「しかし、収入も年金給付に移行するなどで減少しているため、高齢夫婦無職世帯の平均的な姿で見ると、毎月の赤字額は約5万円となっている。この毎月の赤字額は自身が保有する金融資産より補填することとなる。 」という記述があり、その下の図がその根拠です。図の下に「第21回市場ワーキング・グループ 厚生労働省資料」と書かれています。

    この資料は「金融審議会『市場ワーキング・グループ』21回)議事次第」のサイトにあります。「資料2 厚生労働省提出資料」のP24(PDF上では26/52)に同じ図が掲載されており、その右下に「(出所)総務省『家計調査』(2017年)」の文字が見えます。

    総務省の平成30年5月18日の報道資料のサイトによると、統計局ホームページまたは政府統計の総合窓口(e-Stat)から御覧くださいとのことですが、前者のリンクは今は2018年の資料につながっているので注意が必要です。後者の年次(調査年)のリンクからこちらにたどり着きます。ここの「表番号 3-12 (高齢者のいる世帯)世帯主の就業状態別 二人以上の世帯」のExcelデータ列AT「高齢夫婦世帯(夫65歳以上,妻60歳以上で構成する夫婦一組の世帯)の無職世帯」が先の資料、「高齢社会における資産形成・管理」「資料2 厚生労働省提出資料」に使われている図の元データなのでしょう(実支出・消費支出・食料の値より判断)。このExcelデータの内容を以下に示します。一か月にかかる費用(円)です。項目はこちらで編集しました。( )内の数字は世帯人員2.0で割った一人あたりの値です。

    世帯人員 2.0
    [実支出] 263,718(131,859)
    ([実支出] = [消費支出] + [非消費支出])

    [消費支出]     235,477 (117,738.5)

    食料        64,444  (32,222)

    (食料内訳)
    米          1,944   (972)
    パン         2,012  (1,006)
    麺類         1,110   (555)
    他の穀類        434   (217)
    魚介類        7,193  (3,596.5)
    肉類         5,815  (2,907.5)
    牛乳         1,359   (679.5)
    乳製品        1,637   (818.5)
    卵           703   (351.5)
    生鮮野菜       6,131  (3,065.5)
    乾物・海藻       840   (420)
    大豆加工品      1,201   (600.5)
    他の野菜・海藻加工品 1,258   (629)
    果物         3,681  (1,840.5)
    油脂          348   (174)
    調味料        2,943  (1,471.5)
    菓子類        4,380  (2,190)
    調理食品       8,097  (4,048.5)
    茶類          942   (471)
    コーヒー・ココア     695   (347.5)
    他の飲料       1,823   (911.5)
    酒類         3,102  (1,551)
    外食         6,794  (3,397)

    魚介類と肉類で一人月およそ6,500円ですか……生鮮野菜も一日100円はどうなんでしょう。多いような。果物、調味料、菓子類、こんなに使うものなのだろうか。

    住居        13,656   (6,828)

    電気         9,138   (4,569)
    ガス         4,183   (2,091.5)
    他の光熱       1,644    (822)
    上下水道料      4,303   (2,151.5)

    家具・家事用品    9,405   (4,702.5)

    被服および履物    6,497   (3,248.5)

    家具・家事用品と被服および履物はこんなに使うかちょっと疑問です。

    保険医療      15,512    (7,756)

    交通         3,519    (1,759.5)
    自動車等関係費   16,029    (8,014.5)
    通信         8,028    (4,014)

    教育          15      (7.5)
    教養娯楽      25,077    (12,538.5)

    諸雑費       19,432    (9,716)
    こづかい(使途不明)  6,097    (3,048.5)
    交際費       27,388    (13,694)

    教育娯楽と交際費で毎月26,000円強、年31.5万円弱。もっと削れるような。あと月一万円近い諸経費って何だろう。

    仕送り金       1,111     (555.5)

    [非消費支出]    28,240    (14,120)

    直接税       11,705     (5,852.5)
    社会保険料     16,483     (8,241.5)
    他の非消費支出     53      (26.5)

    ※上記の項目について合計した際の若干の差は端数の影響と思われる。

    これらの数値に対する感想は人によりけりなのでしょうが、私は普通よりもややいい感じの暮らしをしている人の実態だと感じました。暮らしが成り立たないレベルの話ではないな、と。これは、いい暮らしをしている人が普通の、即ち一般的な暮らしをしている人よりも少ない場合に支出の費用を平均で求めると普通の暮らしをしている人の支出費用より多い値が出てしまう、ということで説明できると思います。平均で求めた以上報告書に「平均的な姿」と書くのは間違いとはいえないものの、それは一般的な姿とはいえないでしょう。

    更にいうなら、これらの支出の費用は年金に加え今まで貯蓄した財産を取り崩して支払っていると考えるべきですが、先の市場ワーキング・グループ報告書「高齢社会における資産形成・管理」等の資料でそれに対応しているのは

    勤め先収入    4,232
    事業収入     4,045
    社会保障給付  191,880
    その他収入    9,041

    の合計の[実収入]209,198円となってます。そして、この額に貯蓄から毎月約5万円を加算して先の[実支出]263,718と釣り合う、、それが30年続くから2000万円必要という話になっています(「(別紙1) 金融審議会 市場ワーキング・グループ報告書『高齢社会における資産形成・管理』」 P21(PDF上では26/56)。

    これを、先に引用した報告書のように「しかし、収入も年金給付に移行するなどで減少しているため、高齢夫婦無職世帯の平均的な姿で見ると、毎月の赤字額は約5万円となっている。この毎月の赤字額は自身が保有する金融資産より補填することとなる。 」(再掲)と書いてしまうと、「赤字」という言葉から「同種の比較の結果このようになり、それが今後は必然的に起こる」と受け止められかねないのではないでしょうか。実支出は年金に貯蓄取り崩しが加わっている可能性がかなり高いのに対して実収入は年金が大半であること、また一般的にはこれほどの支出をしなくても生活できるであろうことから、「この実支出の要素として年金と貯蓄の取り崩しが考えられる。同様の支出を保つためには現状ではこの算定の実収入の大半を占める年金に加え2000万円の貯えを目標としておきたい」のようにもう少し表現を工夫したほうがよかったのではないかと思います。

    また、P21ページ目(PDF上では26/56)には「夫 65 歳以上、妻 60 歳以上の夫婦のみの無職の世帯では毎月の不足額の平均は約5万円であり、まだ 20~30 年の人生があるとすれば、不足額の総額は単純計算で 1,300 万円~2,000 万円になる。」という記述があり、「不足」という言葉から「それがないとやっていけない」印象がします。この箇所のその後は「この金額はあくまで平均の不足額から導きだしたものであり、不足額は各々の収入・支出の状況やライフスタイル等によって大きく異なる。」と続くのですが、更にその後が「当然不足しない場合もありうるが、これまでより長く生きる以上、いずれにせよ今までより多くのお金が必要となり、長く生きることに応じて資産寿命を延ばすことが必要になってくるものと考えられる。」と続くので、「この金額は(略)」の箇所が月5万円不足するという決めつけを防ぐ意味合いが薄れてしまっているのは良くないところです。

    この話題については、まず一にも二にも健康で文化的な最低限度よりもう少し余裕のあるそこそこの生活をするための金額を算出するのが必須でしょう。例えば、物価と栄養素表と必要な摂取カロリー量を突き合わせて必要な食費を算出したり、あるいは各月の平均気温とそれに対して必要な冷暖房費を算出するとか、そのようにして各分野で必要な支出額を求めるべきでした。実支出を用いる場合は、先に述べたようにそれが平均値である以上一般的な生活を上回る姿を反映している可能性が高いこと、そして「年金 + 貯蓄取り崩し」と「ほぼ年金」の比較をすることによって表現上の誤解を生じかねないことから良い報告書を作成するのは非常に困難なのではないかと、今回の騒動を通じて思いました。

    よって、この報告書については高齢者の一般的な実態を反映していない、というかそこそこの生活を上回る水準を絶対的な基準にして以後の算定をしてしまっている点で、受け取ったほうが無責任と言われかねない出来の良くない資料だと考えられます。麻生太郎金融相が受け取りを拒否したのも当然で、よく考えて作り直せと言われても仕方がない代物でしょう。

    野党ならびにこの件で野党に肯定的なマスコミの皆様において改めて検討していただきたいのは、上記の約25万の実支出の内容が本当にこれからを考える上で適切な判断材料か、ということです。適切だと判断したからそれを前提に論を進めているこの報告書の受け取り拒否を不適切で「前代未聞の暴挙」とみなし、故に参議院本会議に問責決議案を提出したり(否決)衆議院本会議に不信任決議案を提出したり(否決)したのでしょうが、私はこの件についてはこの実支出の内容を是とするほうが後に傷口になってもおかしくはない話だと考えています。

    ただ、今回のこの騒動に関して一つ懸念していることがあります。報道でも話題に出ているのを見かけますが、今年、2019年は年金制度改革で誕生した、年金財政に問題がないか確認するための5年に一度の財政検証が行われる年です。今回の件は確かに金融庁に非があるものの、資料を読み込んでいれば問責決議案や不信任案にいく話ではなかったと思います。金融庁が、それこそ世間と野党とマスコミに忖度して「実際の状況は相当厳しいことを今後のために伝えなくてはいけないのに非難を避けるために楽観的に見積もりをして表現を甘くする」行為にでないか心配です(実際の状況は相当厳しいかどうかは私にはわかりませんが)。それこそそんな行為にでるべきではないというのはたやすいですが、金融庁の方(かた)も過失以上の過度の非難は受けたくないでしょうからそのような思いに至ることもなくはないとみています。それこそこの件で問われているのは(誰に?未来の日本の国民から)マスコミや与野党、官僚を含めた現在の日本国民全体の政治に関する意識なのでしょう。
     
     
    付記

    なお、2000万円ではなくて「1500万~3000万円必要」とする別の試算が取り沙汰される場合があります。

    金融庁「3000万円必要」=老後資金、報告書と別に試算

    これは結局採用されなかった数値なのですが、上の記事中では「4月12日に開かれた審議会の作業部会」とあり、この資料は先に出た「金融審議会『市場ワーキング・グループ』21回)議事次第」のサイト「資料3 事務局説明資料(人生100年時代における資産形成)」のP11(PDF上では13/22)に記事と同じ試算がされていて、その枠外の下に「総務省『家計調査(平成29年年報)』における二人以上の世帯(世帯主の年齢が65歳以上)の一カ月間の消費支出より」の文字が見えます。これは先の「表番号 3-12 (高齢者のいる世帯)世帯主の就業状態別 二人以上の世帯」のExcelデータ列W「(うち65歳以上の者がいる世帯)の『世帯主が65歳以上』」がここで使われている図の元データなのでしょう(消費支出の値より判断)。先のExcelデータと同じ表なので、比べてみるのもいいかと思います。ただしこちらは世帯人員が2.0ではなく2.45なので、そこには気をつけてください。
     
     
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    じたばたしてもしょうがない


    そんな境地にこの曲を
     

     

    以下に、歳をとっても読みたい本を置いておきました。


  • 東京電力が特定技能の外国人労働者を受け入れる件で

    題記は朝日新聞デジタルの記事「福島廃炉に外国人労働者 東電「特定技能」受け入れへ」からです。有料会員でなくとも読めるところまでしか目を通していないのですが、それでも気になるところがありまして。

    受け入れる企業に関しては、山下貴司法務大臣が去年2018年11月7日の第197回国会・参議院予算委員会第2号で、

    「(略)今回の特定技能の受入れというのは、真に必要な分野に限って、我が国が生産性の向上であるとか国内人材の確保の努力を払っても人材の確保が必要な分野について一定の技能を持つ者を受け入れるものということで、(以下略)」

    と答弁しています。「生産性の向上であるとか国内人材の確保の努力を払っても」が今回の記事のポイントです。

    法務省の「出入国管理及び難民認定法及び法務省設置法の一部を改正する法律案」法律の第二条の四に「法務大臣は、基本方針にのつとり、人材を確保することが困難な状況にあるため外国人により不足する人材の確保を図るべき産業上の分野(以下略)」とあり、反映されてないようにみえるのですが「基本方針にのつとり」の文言があります。

    基本方針は「閣議決定等」特定技能の在留資格に係る制度の運用に関する基本方針(平成30年12月25日 閣議決定)に「生産性向上や国内人材の確保のための取組を行ってもなお人材を確保することが困難な状況にある産業上の分野において」との表記があるので、間接的な表現ですが受け入れる側は「生産性向上や国内人材の確保のための取組」を行うことが条件であるといえます。なお、「特定技能運用要領・各種様式等」「特定技能外国人の受入れに関する運用要領」のP1にも同様に記載されています。

    ただ、これは閣議決定された基本方針を変更すれば法律も変わることを意味するので、そこは気を付けておいたほうがよさそうです。今回の特定技能制度は、先の基本方針や運用要領の表現を使うなら、あくまでも「深刻化する人手不足に対応するため」のものなのですが、このニュースをみて妄想すると「深刻化する人手不足や、特別な事情により緊急性を要する業務に」のような感じになる可能性もなくはないのかなあと思っております。あるいは、もっとシンプルに「生産性向上や国内人材の確保のための取組を行ってもなお人材を確保することが困難な状況にある産業上の分野において」とか(妄想です)。

    それにしても。東京電力は「生産性の向上であるとか国内人材の確保の努力」をどれぐらいしたのでしょうか。先の運用要領のP134の後の別紙の「新たな外国人材受入れ制度」や「『特定技能』に係る在留諸申請に関する提出書類一覧表」を一通り見たのですが、どのように生産性の向上や国内人材の確保の努力を申告したのか、そのような書類が見当たらなかったのですよね。項番33の「中小企業診断士,公認会計士等の企業評価を行う能力を有すると認められる公的資格を有する第三者が改善の見通しについて評価を行った書面」は特記事項に「・直近期末において債務超過が ある場合に提出が必要」とあるから違うだろうし……項番45の「雇用の経緯に係る説明書」も「特定技能運用要領・各種様式等」参考様式 第1-16号の記載例を見る限り改善を含んだ会社の説明を記載しているわけではなさそうなので、もしかしたら行政に対する報告義務はないのかと心配してます。どなたかご存知の方がいたら教えていただきたいぐらいで、私の見落としであってほしいものです。

    今回の東京電力が特定技能の外国人労働者を受け入れるにあたって、そこに至るまで生産性の向上や国内人材の確保について相応の努力をしたのか、その結果として職場の待遇はどうなったのか、説明していただきたいものです。
     
     
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    今回は心配になる(?)曲を。


    「黒い波、予兆、明日」です。
     

     

    災害に関連した本です。上段左端は「津波災害 増補版-減災社会を築く」、中央は「女性のための防災BOOK」です。

    中段左端は「防災 これだけは『知っておきたい』BOOK」です。

    下段は非常食です。左端は井村屋のえいようかん(羊羹)です。