• 占いの効用について

    最近は朝の民放のバラエティーな感じの情報番組も雑誌も見てないのでわからないが、占いは今どうなっているのだろうか。今年はおみくじも引いてないこともあって、長いこと占いが縁遠くなってしまった。娯楽のための雑誌や番組はいいが、通常の報道も行うような情報番組では占いは場違いな気がする。しかし、占いならではの効用もおそらくある。それを幾つか思いついたのでここに記すことにした。

    言うまでもなく占いとは今日これからを含めた未来をより良く過ごすための行動などを示したものだが、その内容を大まかに言えば提案と警句だろう。運が向く行き先や行動、ラッキーカラーなどの助言が提案であり、避けた方がいい行為などについて述べたものが警句である。あとは、相性判断の類だろうか。それらの占いの根拠は、誕生日や血液型などの偶然による変えがたい属性によるものが主だろう。

    提案については、「期待」がキーワードだ。その提案は比較的簡単に達成できるはずで、日々懸命に働いて月収50万を越えれば幸せ、といった内容ではないはずだ。つまり、少ない労力で効果を得られることを示唆している。それを信じ、期待することで脳が活性化して頭がよく働くようになり気持ちも積極的になる、この面が大きいのではないだろうか。その結果、仕事でいい発想が浮かんだり、逆にミスに気付いたり、視野が広くなって普段なら見過ごしそうな路上の落とし物が目に入ったりするかもしれない。これは相性判断でも同じことがいえる。

    警句については、「慎重」がキーワードとなる。判断のために思考することで迂闊(うかつ)な行動が減り、危機を回避できるかもしれない。ただ、ここで気を付けたいことがある。行動の否定だ。ある行為については注意しよう、ぐらいなら先の効果が働くかもしれないが、その行為をするべきではない、という言葉は可能性を閉ざすだけなので聞き入れる価値が感じられない。特に相性判断にその危険性を感じる。人付き合いの相性は偶然による属性よりも実際の言動のやり取りによるところが大きいからだ。その言動はその人の資質と育ってきた環境の影響なので、そこに占いの根拠が介入できる余地はほとんどないはずである。

    さて、ここでもう一つ書いておきたいことがある。占いの当たり外れについてだ。占いが当たったか外れたか、言い換えれば幸運が訪れたか、不幸に遭ったかの判断は、本人の主観、判断によるところがほとんどだろう。そこそこ客が入るカフェに行って、お気に入りの席が空いていたとする。人によってはそれが普通かもしれないし、あるいは運が良かった、占いが当たったと感じるかもしれない。また、いつも買っている商品が品切れだったとする。こちらも、よくあることだと捉える人もいれば、運が悪かった、占いが当たってしまったと思うかもしれない。となると、占いの当たり外れは、当人が占いを信じるかどうか、都合よく解釈するかどうかによるところが大きい。

    ただ、占いの根拠は先に述べたように偶然による変えがたい属性によるものが主なので、真っ当なものとは言い難い。なので、それらの根拠を本当に信じ込む人はあまり居ないと思う。よって、次のような言い方をせざるを得ない。占いを信じる人にとっては、占いによる効用によってその分幸せになった。このことは、占いの概念がない世界よりは良かったのではないか、と。

    占いによって幸せになるために無理して占いの根拠を信じようとするのは感心しない。落ち着いて考えてみて、きちんと相手にするだけの思想でなければ相手にしないほうがいい。無理をして信じようとしても心に負担がかかって辛くなるだけだ。その辛さは、おそらく先に述べた占いによる効用を上回ることだろう。無理して信じるのは常時でかつ精神の根幹に関わることだが、占いの効用が現れる頻度はそんなに多くなく、その幸運の程度も所詮は偶然で少しいいことがあった、ぐらいのものではないだろうか。それが努力による幸運より確かなものとは思えない。

    最後に、繰り返しになるが警句の範疇(はんちゅう)を越えた否定的な言辞、選択肢を狭める文言にはくれぐれも気を付けたい。これだけは、占いを信じることが幸せから遠ざかる負の要素だろう。どうしても気になるのなら、占いの文句を抜きにしてじっくり考えることだ。何事も、最善を尽くして取り組んだほうが、仮に上手くいかなかったとしても後悔は少ないはずだからだ。

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  • 宗教に織り込まれた信仰心を加速するシステムについて

    それにしても宗教はすごい。おそらく人類にとって最も興味を惹き付けてきた存在だろう。宗教に基づく熱意は、日常の儀礼や非日常の祝祭の行事など様々な形で、時に静かに、時に賑やかに現れている。日曜日の教会での礼拝、バグダッドへの聖地巡礼、除夜の鐘、初詣など枚挙に暇(いとま)がない。そして、その影響力によって多くの人が救われ、多くの人が殺された。十字軍然り、イスラム国(イスラミック・ステート(IS・ISIL)、ダーイシュとも)然りである。

    宗教がここまで人々を動かしたのは、何と言っても「死後の世界における安全・安心の確約」の概念を発明したのが大きい。ほぼそうとしか思えない。よくぞ「死後の世界」などという、途方もない設定を考え出したものだ。この前提となる「(肉体から分離した)魂」と併せて考えると、人間の想像力はあまりにも卓越していることを感じずにはいられない。これは死後の世界の亜種ともいえる「輪廻転生」もそうで、死後、何かに生まれ変わるだなんて、そんな続きが気になる設定を創造したことに深く感心する。おそらく、死後の他者や自分の意識、心がどこかにあって欲しいという願望とともに考え抜いた結果なのだろう。死者の心が自分の感知できない、そして自分の望む所へ……例えば、親切だった人は安らかな所へ、危害を加えた人はその罰を受ける所へ向かってほしいと思えば、それが天国、あるいは地獄になる。輪廻転生には、身近な生き物に宿ってでもそばにいて欲しいといった要素も入っているように感じられる。睡眠時の夢や臨死体験での幻覚がその想像に作用した可能性もあるが、今となっては、その過程を知る由もない。

    これらの「死後の世界の安全・安心の確約」が宗教たるものの太い中心軸であり、人間にとっての最大の関心事であろう。宗教の対象として他に「現世利益」があるが、これは幾分求心力が弱く感じられる。ここに宗教についての一つの鍵があるように思える。大抵の人にとっては現世利益より死後の世界の安心・安全のほうが重大だが、確かに存在して叶う可能性が高いことよりも、存在が未確定なものに関することを願うこと……「信じる」ことに対して熱心であることに、重大性に収まらない理由があるような気がしてならない。

    それを一言でいうなら、人間には、途方もないことを、そしてそれを未確定なまま信じるほうが気持ち良く感じる性質が備わっているのではないだろうか。

    自分自身に関して言うなら、フェルマーの最終定理に対してある種のロマンを感じた覚えがある。もちろん証明される前の話である。x^n+y^n=z^n(nは自然数でn≧3)を満たす整数は存在しない。ワイルズによる論文の正しさが認定されたのは1995年であるが(*1)、それまでは「そうなのかもしれないが、本当にそうなのか」と、数の世界の不思議さと遠大さを想い、証明に関するニュースを聞く度に期待と不安が入り混じった気分になった。未確定だからこそ、その可能性を信じることが不安を打ち消すほどの期待の強さ、すなわち気持ち良さにつながり、その対象が大きいほどその度合いが強まる、あの時のことを思うとそう考えるのが最も適切なように思える。

    その概念的な分野における、大きな対象の究極が神などの超越的な存在であり、そして「死後の世界」なのだろう。設定が大きく、遠くなるほど存在に対する期待が膨らみ、そして証明までの距離は遠くなる。つまり、信者にとってはいつまでも、それこそ世代を超えても対象の存在が未確定のままで信じることができる。また、その距離の遠さは「強く」信じることを要請されているといえる。強く信じなければ、その対象を心に重ね合わせられないからだ。加えて、共同体の一員でなければ生きられなかった時代であれば周囲の宗教に合わせるのはそれこそ必然であり、住む所や職業の選択肢などが少ないことが更に信仰心を強く保つことに作用したものと思われる。

    そうして信じている間、祈っている間は夢見心地なのと近い感覚にある気がする。現実を離れ、意識をそこまで没入するからこそ対象と深く結びついて満足感、充足感が得られる。これをある種の快感に分類しても、そう大きくずれてはいないはずだ。あるいは、こうも考える。人類が、信じたり祈ったり願ったりする度にひどい頭痛がするような体質であれば、宗教は身近な存在になり得たであろうか。何事も、強く信じる行為自体にはある程度の心地良さが入り混じる。その心地良さ自体は、マッサージを受けたときに得られる体感によるものと本質的には変わりないのではないか。しかし、願うにせよ祈るにせよ信じるにせよ、自分の意思によって引き起こした点において、その感覚が体感によるものと類似しているという意識は生じないまま、満足感、充足感、そして達成感が残る。信じるということを考えると、そう思えてならない。

    達成感については、重要な要素のように思えるのでもう少し考えてみる。日々の日課として、お祈りなどの宗教的行為を行ったとする。仕事のように目に見える成果が求められるわけではないので、時間さえあれば可能な、比較的簡単に成し得る行為だといえる。そして、お祈りの最中の満足感、充足感にその終了時の達成感が加わる。小さいながらも、成功体験ともいえるだろう。その行為を繰り返すことでどうなるか。

    「報酬系」という言葉がある。脳の働きについての表現で、報酬とは脳の快感のことであり、食事や称賛の他に達成感によるものも含まれる。報酬系とは、報酬とそれに関連する行動の変化のことで、刺激とそこから得られる情動との連合を学習し、予測に基づいて適切な(例・報酬が最大になるような)行動を選択すると言われている。その予測の結果生じたやる気も報酬系の行動の変化のうちに含まれる。また、記憶とも密接に関与し、受けた感覚情報を過去のものと参照して評価することにも関わってくる。そして、予想より良い結果を得られた場合は報酬を得るための脳の働きが強化され、逆に得られなかった場合はその働きが弱くなる、予測誤差仮説も提唱されている(*2)。

    もしかしたら、恒常的にかつ真摯に超越的な存在に向き合うことや、生きている間にはたどり着けない遠い世界に思いを馳せることによって、些細な達成感であっても幾ばくかは脳内のシステムが信仰心の強化に寄与することが生じているのかもしれない。日頃の習性による心情の変化が脳の作用としてどの程度説明され得るのか、もう少し詳細な情報がほしいところではある。

    信仰心、というか実在を信じる心情についてもう少し書いておきたい。超越的な存在や死後の世界の知識を得ても、始めからそれを丸々信じる人は少ないと思う。しかし、人間は意志によって何らかの行為を行う一方で、行為を行うことによって意志(心)が追随し形成される、そんな側面もあるように思える。つらいときでも作り笑いをすることで、ひと時でも心がほぐれる、そんなことはないだろうか。簡単な宗教儀式、例えば鳥居の前で礼をするとかでも、もしかしたらそこに神が居るかもしれない、少しだけ、そんな気分にはなる。そのような行為を繰り返すことで、実在感が強くなる、そんな作用もあるのかもしれない。そしてそれは、神が誰でもわかるように観測されないからこそ、超越的な存在を実在するように思える特別な感覚を持つ自分は特別な存在である、という感情、ある種の快感もまた実在を信じる心情を補強し、超越的な存在や死後の世界が更に確固たるものに思えてくる。そんな思考が芽生え、定着してもそう不自然だとは思えない。

    少し話をまとめてみる。宗教は「死後の世界」や「超越的な存在」といった強く興味を惹く概念を創造した。それらは人々の希望であると同時に、証明できない性質を持ち合わせている。宗教的行為は人を心地良くさせ、更に、証明できない性質であるが故に対象に対する強い信仰心が求められ、それに応えるように強い信仰心が形成される。宗教的行為の反復ならびに設定を肯定する宗教的行為自体に、信仰心が強化される性質がある可能性もある。

    これらの点において、考えておきたいことがある。人類は、今後宗教とどう付き合うか。冒頭で述べたように、宗教によって多くの人が殺されている。これを抑止するためにはどうすればいいか。人類が、永遠の死後の世界を夢見るという無上の愉しみを、希望を手放せるわけがない。しかし、何らかの節度を設け、心掛けることで攻撃的な精神を緩和することはできないものかと思う。二つ考えてみた。

    一つは、周囲に対する感謝の念の強調である。「上に祈る前に、周りにできるだけの感謝を」。どう考えてもこの世界で生きていくためには、一人では生きられない以上、存在するかどうか確定できない何かより現実に存在している人間を意識したほうがいい。そして、周囲、つまり対象となる自分に関わる人間をより多く想像することを心掛けた上でこの感謝を続けることで、次第にその人間の範囲が直接的に関与している人から間接的に関係している人まで、当然海外の国にまで広がっていくことだろう。そこで、他者でしかなかった人間が自分に関与していたことに気が付いたとき、その攻撃の手も幾分緩むのではないだろうか。

    もう一つは、人間には先に述べた宗教的行為の反復により、信仰心が強くなる性質がある可能性の自覚である。継続による変容と行動による変容を知識として蓄えること。そして、自分の信仰心の深化を客観的な視点で観測すること。これらを合わせて考えることで、死後の世界や超越的な存在の確信が人間ならではの「性質」に過ぎないと捉えられれば、宗教的価値が至上のものではなくなり、それに基づく他者への攻撃も抑えられるのではないかと思う。もしかしたら、他者への善意も控えめになるかもしれないが、それは宗教的価値に基づかなくても可能なはずだ。

    この二つを、公的な教育機関などで広く伝えられないかと思う。教義を直接否定しているわけではないから、既存の宗教と強く反発する要素はないはずだ。だが、同時に難しい問題なんだろうな、とも思う。真っ当な筋道の理屈抜きに、教義に対する帰依を、精神的に従うことを要請するのが宗教だからだ。人との結び付きより超越的な存在との結び付きを重視し、人の心に対して俗世よりも架空の素晴らしい世界への跳躍を志すのが宗教だからだ。

    そして、宗教的価値はその宗教を信奉する仲間内で価値があることと、その価値が他者に影響を及ぼす際には他者から反発される可能性があること。これらも広まってほしいと思うが、宗教全ての否定と思われかねないので難しい面もある。また、これらは他の価値についてもかなり当てはまることかもしれないが、念のためここでは保留しておく。

    上記の対策と心構えを根付かせるのは容易ではないだろう。残念ながら、これ以上はいいアイデアはない。あとは、世界に対する権威となりうる、国連による推奨や(できれば世界中の)マスコミによる連携したキャンペーンが望ましい、ぐらいしか思いつかない。

    そして、これから人類は宗教とどう付き合うべきか。先の対策と心構え、そして改めて宗教の設定を架空のものだと自覚した上で深入りし、宗教ならではの死後の世界などの思考に浸りつつ現実の生活と折り合いをつける、それを目指すのが最善だろう。

    *1 https://www.js.kuas.ac.jp/shs/blog/2016/03/08/%E8%B6%85%E6%95%B0%E5%AD%A6/ の『「科学と芸術」第5弾 フェルマーの最終定理 2018年9月』のPDF、https://www.js.kuas.ac.jp/shs/wp/img/2018/06/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%9C%80%E7%B5%82%E5%AE%9A%E7%90%86-3.pdf より
    なお、この手の数学の未解決問題は他にも多数ある。例えば、3と5、11と13、29と31のような差が2である素数(1とその数以外では割り切れない、2以上の自然数)の組、双子素数は無限に存在するか、というのはどうだろう。「数学 未解決問題」でインターネットを検索すれば、このような問題を色々と目にすることができる。

    *2 毛内拡 著『脳を司る「脳」』P127(講談社ブルーバックス)、五反田ストレスケアクリニック『ドーパミンシリーズ3:ドーパミンと報酬系の仕組み~「やる気」と「快楽」を生み出すメカニズム~』 https://gotanda-seishinka.com/column/%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA%EF%BC%93%EF%BC%9A%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%81%A8%E5%A0%B1%E9%85%AC%E7%B3%BB%E3%81%AE%E4%BB%95/

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    「呪い、魔王とメシア」 歌は、穂歌ソラさんです。ご視聴よろしくです。
     

     

  • タイタンの妖女(カート・ヴォネガット・ジュニア 著・浅倉久志 訳・ハヤカワ文庫)雑感

    まずは感想から。終わりの辺りまでは、1回読んどけばいいよね、と思っていた。しかし、終わりの部分が良かった。数年経っても読み返したくなるかもしれないと思った。なので、しばらく置いておくことにした。

    面白いかどうかと言われると、そこそこ面白いほうだと言える(ここでも言うけど、終わりの方が良かった)。というより、当初の展開の予想がズレたまま進んで行ったのを考えると、少し変わった感触の小説として紹介したい。

    あっ、私が持っているのと表紙が違う。


    ワクワク感については、xxxが出て来るまでが最も高かった。xxxが出てきて、あれっと思った。

    最初に興味ある謎(話題)を提起して読者を引き付けておく方法は、読んでいて推理小説に近い仕組みを感じた。

    アレはP-modelの楽曲の元ネタとしか思えないし、アレも一般名詞だけどそうなんじゃないかなと思う。きちんと調べてないですが。

    以前から、PCサーバーの一群をなぜ「クラウド(雲)」と呼ぶようになったのか気になっていてネットでいくつかその理由を読んで、それなら「サンゴ」でも「森」でもいいじゃないかと思っていたが、この本のP286の台詞に、これに影響されてもおかしくないような表現があったので引用してみる。

    「(略)それは、みんなが一吹きずつのもやを持ちよった雲のようなもので、その雲がみんなの代りにあらゆる重大な思考をやってくれるんだ。といっても、実際に雲があるわけじゃないよ。それに似たあるもの、という意味だ。(「実際に」には傍点あり)(以下略)」

    これはサーバー群をクラウドと名付けた人に尋ねたくなる。
    (この箇所とクラウド等との連想については、インターネット上に既に指摘あり)

    それにしても、これは読む前から思っていたのだが、アメリカの(SF文学史じゃなくて、全ての)文学史上この作品はどういう扱いになっているのだろうか。いや、もっと範囲を広く考えるべきだろう。アメリカにしろ日本にしろ他の国にしろ、このような、本道とされる文学とは異なる特定の分野の小説は、その国の(全ての)文学史の中で、どのような評価をされているのだろうか。SF小説、推理小説、時代小説、ラノベ、ミステリー、異世界……日本のSF小説だと、日本全体の文学史では星新一は評価されていそうだ、ぐらいの認識しかない。もちろん相当古い認識だろう。私の持っている国語便覧の年表を見てみると、一番新しいのが村上春樹の「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」(1985)だった。それとも、多種多彩な大量の小説が出版されている現代では全ての分野に渡って評価できる人または団体は存在しようがなく、そのような文学史を作成するのは最早不可能で、仕方がなくその代替として今我々が見知っているいかにも本道な感じの文学史を使っている状況なのだろうか。考えてもきりがないが、それがどうにも気になった。

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    「星のつぼみ」 歌は、野々原くろとさんです。ご視聴よろしくです。
     

     

  • 中垣慶「流風(リウフェン)中垣慶作品集」について

    簡単な紹介のみ。ネット上にはこの書籍に関する情報がない、もしくはネット検索によってたどり着くのが困難なため書くことにしました。環境依存文字は正常に表示されないかもしれないので、念のために書いておきます。①、②はマル1、マル2、Ⅱはローマ数字の2(II)です。


    上のAmazonリンクの画像はkindle版の表紙です。ページを移動した先の右上のリンクから、ペーパーブックの購入も(在庫があれば)可能です。
     
    ・タイトルなど
    中垣慶「流風」中垣慶作品集
    (「流風」の読みは「リウフェン」。)
    YOUNG KING COMICS
    少年画報社 定価500円(本体485円)
    雑誌47016–55
    ISBN4-7859-4655-5 C0079 P500E
    ヒットコミックス655
    平成3年12月15日 初版発行
    全206頁 B6版(128mm×182mm)
    (いわゆる「青年コミック」のサイズ)

    ・収録作品
    流風①
    流風②
    狼くん突風
    キャッティ♡キャット(「キャッティ」と「キャット」の間にハートマーク(♡)が入る)
    ミッションⅡ
    ミルキィ先生
    (書籍に初出一覧の記載なし。)

    以下、関連作品です。

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    「疾風 The Gale, The Music with the Volley of Green Laser Beams」インストゥルメンタルです。ご視聴よろしくです。

     

  • 厄除け詩集(井伏鱒二 著・講談社文芸文庫)感想と芸術史について

    先日、神田の古本屋で井伏鱒二の「厄除け詩集」(講談社文芸文庫)を安価に入手できた。前々から気になっていたのだがなかなか見つからず、又あったとしても少し高いお値段だったので手を出しづらかったのだ。一通り読んで最初はツイート、というかXに連続して投稿しようと思ったが、案外書くことが多そうなのでこのブログにまとめることにした。

    私は、新書や文庫など持ち運ぶのが苦でない本は出社時の列車内や昼休みなどに読む。この本は、およそ1日で本編を、もう1日で解説などを読んだ。本編は「厄除け詩集」「訳詩」「雨滴調」「拾遺選」が収められている。

    正直なところ、この本の現代詩(「厄除け詩集」「雨滴調」「拾遺選」)のうちでは冒頭の作「なだれ」しか引っ掛かるところがなかった。漢詩の訳詞はいいのが少しあった。「春暁」「答李澣」「静夜思」「田家春望」「勧酒(”サヨナラダケガ人生ダ” の詩)」はいい方だと思った。もちろん自分なんぞが偉く語れるほど詩に通じているとは思ってはいない、要は素人の感想だ。買う前は幾分期待していたのだが、結果としてそれほどのものではなかった。こういうこともある。「厄除け詩集」という作品集名はいいと思ったが。

    先に述べた作品の幾つかは以下のサイトで読める。
    井伏鱒二:厄除け詩集|要約・解説・本文(一部) – 日本文学ガイド

    この本には河盛好蔵による解説「人と作品 詩人井伏鱒二」が収められている。書かれたのは1994年。その中で「たとい小説を書いていなくとも、『厄除け詩集』一巻だけでも井伏さんの名は不朽であろう。」と述べられているが、そうだろうか。私は厄除け詩集だけではかなり難しいと思うので、持ち上げ過ぎのような気がしてならない。「詩のこころを読む」(岩波ジュニア新書)や「詩の中にめざめる日本」(中公新書)や「谷川俊太郎詩選集 1」(集英社文庫)や「現代秀歌」(岩波新書)にある様々な感情を喚起させる作品群と比べると、この本の現代詩から受けた感情は大してなかったからだ。

    それにしても、話はそれるが、文学史とは、いや、音楽や美術なども引っくるめた芸術史とは一体何なんだろうか。突き詰めて言えば、その大半は、作品が受け容れられた―要するに、俗に言えば「ウケた」(とどのつまり、そういうことだ)—歴史なのではないだろうか。それならば、そのようにしっかり記述するべきだろう。誰それの何という作品を、誰が、どの程度受け容れたか。そして、文学にしても何にしても、大衆が受け容れた作品と、その道の一流と認められた人々(文壇、画壇……これらも、「誰によって認められたか」という視点に注意する必要がありそうだ)が受け容れた作品とに差異があるはずで、その点についても確実に記録されたものを伝えなければなるまい。

    その際には語らなければならない視点が沢山ありそうだ。一つ思いついたのは、ヨーロッパの国々の15世紀の大航海時代以降の世界進出による日本を含む他の地域の価値観への影響だ。価値観が変われば作品に対する評価にも変化が生じる。となると、芸術史を記述するには、その根底となる世界の各地域の意識の歴史、つまり「意識史」も同時に記述しなければならないのではないだろうか。意図せず話が大きくなってしまったが、どうもそんな気がしてならない。

    あとは気がついたことなどを書いておく。「按摩をとる」という作品の一行目に「ここは甲州下部鉱泉の源泉館」とあるが、これはもしかしたら、つげ義春の漫画「ゲンセンカン主人」の名前の元ネタなのだろうか。詳しく調べていないが気にはなる。また、「勉三さん」という題の作品もあり、どうしてもキテレツ大百科が思い浮かぶ。ただ、その2つ後の作品に「勘三さん」という人物が出て来ると、これは言葉遊びの類というよりネーミングの引き出しが少ないのではないか?と考えてしまう。

    「逸題」という作品に「よしの屋」という店が出て来たが、これは新橋の飲み屋なので牛丼店とは関係ないだろう。

    年譜も載っていたが、9歳の頃に「夏、”トートー”と名付けた犬が、行商人に連れて行かれ、悲しい思いをする。」とか、10歳の頃に「夏、井戸替えのとき、幼い頃の大事な”宝物”であった水晶が出てくる。」とか、小説のネタになっているからかもしれないが、ここまで書く必要があるのか?と少々訝しんでいる。

    あと、1944年の7月に「少国民の友」に載っていたという「鼠ボーイ」というのが気になった。
     
     
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    「リボン」歌は、朱音イナリさんです。ご視聴よろしくです。