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  • 目からウロコが落ちたときこそ

    困った。前々から書きたかった題材で、書く状況も今が最適なのだが、肝心の「目からウロコが落ちた感覚」が思い出せない。しばらく本棚を見て、目からウロコが落ちる体験をした本を探してみたがわからない。ただ、そのような経験が皆無だったとも言い難い。仕方がないので、中学生のときBOØWY(ボウイ)のB・BLUE(確か)を聴いて「自分達の時代の音楽が来た!」と興奮した感覚や、135(イチサンゴ、バンド)の我愛你(ウォーアイニー)を聴いて「すごい!特に聴いたことのないサウンドがすごい!」と夜聴いて盛り上った感覚を土台に代替しようかと思ったのですが、やっぱり少し違う気がします。

    それで今、この言葉の起源を調べてみたのですが、この言葉はなんと聖書由来だったのですね。新約聖書の使徒言行録(使徒行伝)第9章にその話がある。ということは世界で通じそうなたとえのような気がします。たとえば、DMM英会話によると the scales fall from one’s eyes という表現がある、とのことです。また、ENGLISH JOURNALでは、英語では悪いことにも使うといった指摘がされています。

    その第9章では、主の弟子を迫害していたサウロ(パウロ)が、ある日天からの光とともにイエスの声を聴き目が見えなくなったものの、アナニヤの祈りによって視力を取り戻し、数日後にイエスの教えに従うことを宣言したことが語られています。細かいことですが、私としてはサウロの目からウロコが、いや、正確に書くなら「ウロコのようなもの」が落ちる描写の前に、サウロはイエスが神の子であることを理解したことが描かれていないことが注意すべき点だと感じました。つまり、文章上はウロコ(のようなもの、以下略)が落ちた後にサウロが理解したと読み取れるのが、今の日本での一般的な用法、即ち「理解したからウロコが落ちた」と違っていて興味深く感じました。

    なお、理解と目が見えるか見えないかを結び付けた表現も覚えておきたいところで、これを逆手にとったのがギリシャ悲劇の「オイディプス王」です。目が見えても真実はわからない、目が見えなくても真実がわかるといった話で、紀元前427年頃に書かれたと言われています。


    さて、目からウロコが落ちたと感じたのはどんな時か。おそらく、何らかの情報によって自分の考えが改まったときだと思います。その情報は文章によるものかもしれないし、話し言葉によるものかもしれない。目から入った情報に限らないことは、その「目からウロコが落ちた感覚」は、眼球の表面の感触というより、視覚を含めた脳の感覚によるところが大きい気がします。

    ただ、問題はその情報を受け取ったとき脳にどんな感覚が生じようと、それは正解や真実を示すものではないということです。むしろ「意表を突かれたものの納得した」といった反発と同意の落差に対して脳が「困難に対する成功体験」にも似た作用をしたのではないか。それは、思考を中断して、感覚が論理や理性を抑えつけたような瞬間のような気がします。

    そして、脳はおそらく滅多に体感しない刺激に弱い。その刺激を新鮮なものと肯定的に捉えてしまう。その結果、感情が釣られそのような感覚をもたらした情報に同意しやすくなってしまうのではないか、そんな気すらしてきます。これは、他者による情報のみならず、自分で考えて「閃いた!」と思ったときのも同様でしょう。

    また、これの弱いバージョンで「面白く感じた場合」も似た面があるのではないかと考えています。ある意見が聴き手を面白がらせるやり方で紹介される。その時聴き手が面白く、快く感じた方がその意見を受け入れやすくなる、そんなイメージがある。もしかしたら脳には、快くなったときに聴いた意見を、自分を快くしたが故に正しい、真実であると判定する傾向がいくらかはあるのかもしれない。もちろんこの場合もその快さの程度が正しさと合致しているかどうかは別であり、もし面白かった分それに伴う意見が受け入れられる傾向が見られるのなら、これもまた感覚が理性などを抑えつけた例だといえます。

    ここで思い出してほしいのが普段の飲食、特にお菓子や飲み物などの嗜好品を摂ったときのことで、甘い物を食べたときの甘ったるい感覚が頭に広がる感じや、辛いのものを食べたときの頭の熱さ、コーヒーでカフェインを摂ったときの頭にツンーと来る感触など、その程度でも脳の感覚は結構変わってしまうのですよね。

    それを考えると、何か食べた程度で変わってしまうような性質を持つ脳の感覚を真実の判定に使うべきではない、そうとしか言いようがないです。論理や理性より感覚による判断が重視される状況は宗教ぐらいしかないのではないか、とすら思えてきます(ただし、宗教の人知を超えた部分の真実性は誰も証明できない)。ただ、感覚によらず判断するのは難しい。特に即答を求められる場面ではそうだと思います。そして、新鮮な刺激や面白さをもたらしたから誤りだ、ともいえない。どうすればいいのか。

    それにはまず、自分の脳の快・不快などの感情によって引き起こされる感覚の程度や変化を客観的に捉えられるようにすることではないかと考えています。今、自分は普段より熱くなっているな、今日はなんだかイライラしてるな、紅茶を飲んだせいか気分が落ち着いてきたな、というように。もちろん四六時中そうである必要はないです。己を客観的に見るべき場面で使えれば十分ですので。

    そして、繰り返しになりますが、意見を判断する際には、その自覚した快・不快などの感覚を切り離すことを心掛けることでしょう。そう、目にウロコが入ったときこそ、その感覚に浸ることなく「危うい」と警戒するべきなのです。そして、快・不快に限らず感情は、特に強い感情は自分でもそう簡単に変えたり抑えたりすることは困難なので、その感覚が去って頭が冷めた後でじっくり考えること、それをよく心得ておいていただければと思うのです。

    先に宗教の例をあげましたが、もしかしたら、それ以外にも論理や理性より感覚が重視される状況もあるのかもしれない。その場合でも、できるだけ論理や理性と感覚のどちらを優先すべきか一呼吸置いて考えてから判断するべきであり、感覚にたやすく呑まれて論理を打ち切り理性を捨てて思考停止するのは、所詮「わかったつもり」の域を出ないので避けるべきであると思う次第です。
     
     
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    「ドップラー校歌」 歌は、 朝音ボウさんです。ご視聴よろしくです。
     

     

  • イギリス名詩選(平井正穂編・岩波文庫)感想とメモ

    古本屋で300円で購入、定価表示が620円。この程度の値段で一国の代表的な詩が100作収められているのは本当にありがたい限りです。今アマゾンを見たら1012円、何故に!?中古は24円でした。なお、結構力のこもった編者の平井正穂による前書きによるとこの詩集に載っているのはルネッサンス期のスペンサーから現代のブランデンまでで、第二次世界大戦の前後より後のものは別に編まれるべき、とのことで割愛されています。

     
    全体的に以前ブログに書いたフランス名詩選よりも感覚が似ていて読みやすく、心情もわかりやすかったです。漢詩にもよくあるのですが、悠久の自然と比べて自分の人生は何なのか、なんて題材はピンとくる感じでした。

    逆に気持ちに少し待ったがかかったのがキリスト教の信仰を題材にしたものです。縁が遠い概念なので作者の心情を把握するよりも、私としては知識としてとらえる意味合いのほうが強かったです。

    その他、言及したいものなどを。トマス・キャンピオンの「誠実な人間」(P47 9)の最後二行を読んで、鴨長明の方丈記の冒頭を思い出しました。また、アレグザンダー・ポウプの「隠栖の賦」(P133 33)がこの詩と似ているのですが、何らかの関係というか影響というのかがあるのか気になるところです。同じくトマス・キャンピオンの「熟れた桜桃(さくらんぼ)」(P49 10)についてですが、聖書の禁断の実がさくらんぼという話は初耳なので少し驚いてます。ジョン・クレアの「私は生きている」(P207 61)で、今いる世界から次に向かう世界として「海原」の語が出てきたのはケルト人の信仰の名残なのでしょうか。ロバート・ブラウニングの「ピパの唄」(P241 69)は、対句による構成がなんか本当に漢詩みたいで面白いもんだな、と思いました。

    虫の声、鳴き声に触れた詩があったのでメモしておきます。ウィリアム・バトラー・イェイツの「イニスフリーの湖島」(P225)という詩です。また、虫の発する音ということであれば、この詩の「蜂の飛び交う音」とウィリアム・コリンズの「夕べの賦」(P129 38)、サミュエル・ロジャーズの「小さな願い」(P151 45)の三作にみられます。「夕べの賦」では甲虫(かぶとむし)の翅の音に触れていて、「小さな願い」では「蜜蜂の小さな唸り声」とこちらは少々変わった表現を用いてます。
     
     
    以下は自分用のメモです。私がいいな、と感じた作品を書いておきます。

    P 37 5 静かな想いにさそわれて ウィリアム・シェイクスピア
    P 49 10 熟れた桜桃 トマス・キャンピオン
    P 81 22 老齢 エドマンド・ウォラー
    P 91 27 出征に際し、ルーカスタへ リチャード・ラヴレイス
    P117 35 ヘンリーの旅籠屋にて記す ウィリアム・シェンストン
    P121 36 金魚鉢で溺死した愛猫を悼む トマス・グレイ
    P135 39 ポプラの野原 ウィリアム・クーパー
    P153 46 発想の転換をこそ ウィリアム・ワーズワス
    P205 60 ある一つの言葉 パーシ・ビシー・シェリー
    P207 61 私は生きている ジョン・クレア
    P241 69 ピパの唄 ロバート・ブラウニング
    P265 78 ヘラクレイトス ウィリアム・コーリ
    P267 79 真実は偉大なのだ コヴェントリ・パトモア
    P269 80 思い出 ウィリアム・アリンガム
    P271 81 燈台草 ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ
    P281 86 夕闇に鳴く鶫 トマス・ハーディ (※ 鶫=つぐみ)
    P291 88 逝きしわが子 ロバート・ブリジェズ
    P299 90 イニスフリーの湖島 ウィリアム・バトラー・イェイツ
    P317 95 みんなが唄った シーグフリード・サスーン
    P327 98 マリーナ ここはどこだ、どこの国、世界のどのあたりなのか? トマス・スターンズ・エリオット

    再読するならしばらく後で……数年後に読んだ方が自分の心境の変化がわかりそうな気がします。
     
     
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    蛍の光はスコットランド民謡。
     

     

    イギリス関係の本を少し集めてみました。


  • 聖書考古学 遺跡が語る真実(長谷川修一著・中公新書) 感想

    この本の主な内容は旧約聖書と出土した資料との照合による検証で、旧約聖書の創世記の12章から50章、出エジプト記、ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記のあたりまでが取り扱っている主な内容です。

     
    以下、各章ごとに説明ならびに感想を述べていきます。

    第一章は聖書の簡単な説明と、聖書自体の考古学的検証です。「レニングラード写本」とか「ビブリア・ヘブライカ」とか初めて知りました。そして、聖書がどんな人によっていつ書かれたのか、そしてどのような目的があったのか、ということが周辺国家との情勢とともに語られています。

    (メモ:P29、申命記史=申命記、ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記の五書、申命記史観に基づいて編纂された申命記史の存在をドイツ人マルティン・ノートが提唱)

    第二章は考古学の基礎知識の説明と、それによって聖書の内容をどう考えるか、という点についての説明です。

    第三章から第六章が、この記事で冒頭に述べた事柄を記述してます。それに関して、アブラハムやラクダ、聖書に登場した街の遺跡や遺品、旧約聖書のエピソードで登場するエジプトの文献やゴリアト(ゴリアテ)の武装、アラム語やモアブ語の碑文など、検討できる各方面の要素について説明しています。

    なお、以前書いた記事、「聖書 これをいかに読むか(赤司道雄著・中公新書) メモ」で触れたヨシュアのカナン侵攻に関してはP111以降で、また過越(すぎこし、過越節、過越祭)についてはP129から触れていました。

    第三章から第六章については、北イスラエル王国や南ユダ王国の情勢を説明する以上は必然的に周辺国の説明もする必要があるので、結果として古代中東史の本を読んでいるのと近い感触がします。

    (メモ:P183、新共同訳と原文のヘブライ語からの訳が異なる、との説明。私としては、新共同訳が原文と異なる訳をしていることを明言しているか疑問。)

    (メモ:P206、「ヨハネ自身、あるいは彼の弟子たちがエッセネ派だった、と結論するのは早急すぎる。」P207、(エッセネ派に限らず、)「終末思想や浸礼は起元一世紀のユダヤ教徒の間に広く行きわたっていた思想や慣習だった」とのこと。(浸礼≒洗礼))

    第七章は、この本が書かれた時点(本書の初版は2013年)での聖書と歴史学・考古学との関係を考察したもので、ある意味第一章・第二章の続きともいえます。

    一通り読んだ感想としては、おおよそ紀元前2200年のあたりからセレウコス朝、ハスモン朝、ローマ、ヘロデ王を駆け足で語って紀元70年あたりまでが本書のメインの第三章から第六章までの範囲なので、この時代について調べる際にリファレンス的に使う気がします。ある意味、旧約聖書についての古代中東小史ともいえるのではないでしょうか。それ故に、物足りなくなったときにより多くの情報を得るために巻末の読書案内があるのだと思います。もっとも、もう初版発行より6年も経っているので、実際には同一著者の本で新版がでていないか念のため確認しておいたほうが良さそうです。言い切ること、断定することが少ない本でしたが、それ故に学問的誠実さを感じて好感が持てました。
     
     
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    今回はこの曲です。


    「水の鏡β」歌は出宅ナイさんです。
     

     

    今回は本書の読書案内で紹介されていた本や、聖書・キリスト教などの本の特集です。


  • 色彩の世界地図(21世紀研究会編・文春新書)感想

    前回に続いての文春新書の世界地図シリーズです。世界の各地では色にどんな意味合いを持たせているのか、その元にどんな考えがあるのかを知りたくて本書を入手したのですが、この目的に関していうなら本書はテーマごとにまとまりすぎていた気がします。まず、目次を以下に記します。

     
    第1章 東西南北にも色がある
    第2章 国旗のなかの色彩の世界
    第3章 聖書のなかの色彩地図
    第4章 イスラーム世界の緑色
    第5章 赤の語源は血!
    第6章 青い血の謎
    第7章 皇帝色、黄禍、そしてユダヤ人の色
    第8章 白い世界と黒い世界
    第9章 歴史のなかの色彩地図
    色彩の小辞典

    おおよそ目次のタイトルから本書の内容も推察できると思います。第9章は歴史に出てくる色に関する話をあちこちから集めたもので、系統立てて記した内容ではないです。「色彩の小辞典」は「英語に見る色に関係した言葉」と「故事・ことわざに見る色に関係した言葉」で、ともに色が出てくる言い回しについてまとめたものです。

    本書を読んで思ったことをいくつか。P25に「天帝のいる場所は『紫微垣(しびえん)』とよばれるように、淡い紫色の光を放つ星座なのだという。」とあったので、日本の奈良時代にあった役所、紫微中台もそれにあやかってつけた名前かと思ったら、そちらは「中書省を改称した紫微省と則天武后の執政時代に尚書省を改称した中台に由来するもの」(ウィキペディア)とのことでした。

    P106には、聖書とコーランの創造神話と共通した要素がそれらより古い古代エジプトの神話にもあることが書かれていて、こういう話が好きな私には思わぬ拾い物です。

    P111のイスラームの死装束について語った箇所で、「戦闘などで死んで殉教者と認められた者は、生前に着ていた服を死装束としても神の祝福を受けれらる、と信じられている。こうした考え方があるので、自爆テロのような死が殉教とされている現状では、清浄な死装束をまとわず、死体が敵の手で処理されても、来世での至福が必ず約束される、ということになるのだ。」と書かれているのですが、それならそのときに生前に着ていた服を脱がして、(イスラームにとっての)清純ではない死装束を着せるようにすれば少しは自爆テロに躊躇するようになるだろうか、と少し想像しました。

    本書は色についてのエピソードを集めた本です。私としては神話であるとか、あるいは民俗であるとか、各民族の歴史の中で培われた色に対する考え方を知りたかったので、近代の話が出てくるとそこに違和感が生じたりもしました。その種の話に触れると本当にきりがない気がするので、神話が息づいていた中世ぐらいまでで丁度いいのかな……というのが正直なところです。

    とはいえ文章も読みやすく、興味がある話題も結構あったので、新鮮な知識に触れたくなったときの気分転換の一冊としてお勧めします。一通り読むのもいいけど気が向いたときに適当にページを開いて小見出しの箇所を読む、それでも十分に楽しめる本です。
     
     
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    カラフルな動画といえばこれ!


    小品「小鳥の小躍り」です。
     

     

    今回は文春新書の世界地図シリーズと色の本の特集です。


  • 聖書 これをいかに読むか(赤司道雄著・中公新書) メモ

    自分用のメモです。本書では「イェス」という表記ですが「イエス」に改めました。

     
    P4
    イエス・キリスト=イエス救主

    P7
    「救主」はユダヤの救主の意味が後に人類の救主の意味になった

    P10
    新約聖書は「イエス」ではなく「キリスト(救主)」に関する書物

    P12
    本書の聖書の解釈については、人間の心的信仰を含む歴史的解釈で行う。客観的な歴史ではなく、信仰の書として

    P17
    マタイ伝:ユダヤ人の救主、系図はアブラハムから、著作場所はアンティオキア(ユダヤ人キリスト教徒の一つの中心、伝道の拠点)(処女降誕はアブラハムの系図と矛盾することに注意)

    P21
    ルカ伝:人類の救主、系図はアダムから、著者は地中海のヘレニズム世界にキリスト教を伝道したパウロの同伴者、医師ルカ(ユダヤ人ではなく、ヘレニズム世界に育ったキリスト教徒)

    P32
    過越(すぎこし)節の起源はパレスティナ地方のカナン人の春の農事祭、羊の初子の犠牲の祭

    P41
    カナン侵入はヨシュア一人でなされたのではなく、それ以前からのいくたびかの戦闘によってなされた。(私見:ヤマトタケルノミコトのような感じか)

    P53
    (私見:サムソン伝説とスサノオ神話(根の国での大国主命の試練)の類似(髪の毛、倒壊))

    P85
    アダムとイヴの物語が原罪として解釈されるのも(ユダヤ教ではなく)キリスト教になってから

    P98、180
    共観福音書=マルコ伝、マタイ伝、ルカ伝 (ヨハネ伝は除外)
    イエス語録をQ(Quelle、ドイツ語で資料の意味)、
    マタイ伝、ルカ伝独自の資料をそれぞれM、Lとしたとき

    原マルコ=マルコ伝
    原マルコ+Q+M=マタイ伝
    原マルコ+Q+L=ルカ伝
    マルコ伝(+マタイ伝)+ルカ伝+ヨハネ原資料=ヨハネ伝

    P100
    様式史的研究の代表者はブルトマン(Rudolf Bultman)とディベリウス(Martin Dibelius)、書物「イエス(esus)」

    P100
    当時の歴史家にとって取り上げられるほどの大事件ではないので、福音書以外の当時の事件を取り扱ったフラヴィウス・ヨセフス「ユダヤ史」などにはイエスに関する記録はない。

    P117
    イエスは多くの教えを比喩で行った。元来比喩であったものが奇跡として伝えられさらにそれが変化発展していくものもある。

    P120
    処女降誕、復活はキリスト、メシアの信仰が産んだもの。

    P121
    復活についての文献検討による詳細な解説

    P122、168
    パウロは肉体の復活を否定し、霊体の復活を主張

    P123
    「復活」のような霊的な信仰が、超自然的、超物理的な奇跡物語に展開していった。処女降誕、生誕についてはユダヤ教のメシア信仰とキリスト教になってからのキリスト信仰の混合が跡づけうる。

    P126
    共観福音書ではルカ伝が資料保存の強度が強く信憑度が一番高い。マタイ伝はちょっとした説明を加えて編集し直す傾向が強い。

    P140
    最後の晩餐、十字架の説話についての詳細な解説

    P162
    イエスとパウロについての詳細な解説

    P176
    ヨハネ伝:神学的、キリストの神格化、著作場所はギリシア文化中心地のエペソ(ロゴス哲学のイオニア学派の発祥の地)

    P178
    初めに言あり:ギリシア思想のロゴス論、旧約箴言のホクマ論、ヘブライ思想の神の創造

    P185
    イエスによる神の愛の示しがパウロの人間的な悩みのなかに受けとめられ、ヨハネにいたってキリストは神の独り子としてキリスト者の信仰、崇拝の対象としての形を完成した。

    以上です。
     
     
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    今回はこの曲です。


    「青空をとぶ前に」歌は冷声ゼロさんです。
     

     

    今回は聖書・キリスト教などの本の特集です。