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  • 芸能人が政治を語ることについて

    芸能人が政治的な発言をするとインターネットが騒がしくなる昨今だが、今回はそれに関することについて書いてみる。いわゆるテレビのバラエティ番組に出るような芸能人に限らずとも、芸事、つまりは作品づくりによって生活している人についても幾分かはあてはまることだろう。

    まず、芸能人にとって、支持政党や政治問題を語ることで芸能活動が有利になることはほとんどないと思われる。これは、そのような芸能人に対する態度を想像すればわかりやすい。例えば、自分と政治的傾向が似ている芸能人について、それだけの理由でファンになったり、芸能活動に接したりすることはおそらくないはずだ。芸能活動に接するのはその人の芸が面白いからだとか好きだとかでその芸を味わいたいからであって、政治的傾向が似ていてもその人の芸に関心がなかったり、芸風が合わなかったり、その芸が下手だったりしたら見てみようとは思わないものと思われる。

    しかし、この逆は大いにありうる。ある芸能人が政治的見解を表明して、その傾向が自分と違っていたらどうなるか。そう、「敵に回る」のである。その芸能人について、わざわざX(旧Twitter)で「出演するな」「役を降りてほしい」「もう見ない」とか言い出したりする。今までどうとも思っておらず、それ故その芸能人について語ることもなかったのにも関わらず。独り言のように言うのは勝手だが、乱暴な言葉を本人に伝えるのはやり過ぎだ。これらはインターネットによって心情を吐露しやすくなり、それが可視化された結果だが、インターネットがなくても反発心から同様な心理になるのではないだろうか。そこには、自分が支持することでその芸人の収入になり、その収入の一部がが自分が支持できない政党や政治家に寄付される、といった面もあるのかもしれない。

    つまり、芸能人が政治を語っても味方が増えるわけではないが敵は生じてしまい、(おそらく軽度の)憎悪の対象になる確率が高い、というかほとんどそうなるとしか思えない。よって、芸能人が政治を語る利点はその職業上はないとしか言いようがない。

    更に言うなら、芸と言うものの大半は一時(いっとき)でも政治を含む俗世から離れて(もちろん現実の政治を題材に採ることもあるが)架空の世界を愉しむものなので、演者、芸能人の政治色が濃い分、鑑賞者にとってはそれが余計な情報、雑音になり芸の世界への没入を妨げる要因になってしまう。ただでさえ人の心を対象とした職業であり、何が理由で好かれたり嫌われたりするか理由付けが難しい、理不尽なこともあるはずなのに。そのような意味でも、政治に関連した要素は芸の障害でしかないと言える。

    以上が私が考察した日本の現状で、大きく外れてはいないと思う。そして、そこから先はその芸能人の生き方の問題と受け取るしかない。不利を承知で政治について言及を続けるのなら、もうそこに他者が介入できる余地はない。そして、芸を頼りに身を立てているのなら、その芸に誇りを持ち政治思想が原因で離れて行った人の心をも己の芸で客として引き戻してみせる、という心意気は別に矛盾しておらず、成り立つ心情である。

    そのことに関連して語っておきたいことがある。政治的立場の表明は成人において、特に芸能人、有名人のような大衆を相手とする知名度が高い人にとって社会的責務か否か。これはどちらでもいいと思う。つまり、それを社会的責務と見なす社会があってもいいし、別に立場を表明しなくてもいい社会であってもいい。何故なら、どちら(の傾向)の社会がその成員にとって幸福かは、その成員の性質の差によって変わるからだ。

    有名人の政治的立場がわかる(代わりに芸に没入しづらい)社会か、芸に没入しやすい(代わりに政治的立場は不明な)社会か。ここで、社会の成員に問われる性質は二つある。一つ目は、政治的立場の表明と芸への没入のどちらを重視するかの価値観であり、二つ目は、政治的立場の表明が芸への没入の妨げになるかならないかの性分である。この二つの性質の程度によって、社会が幸福になるのに最適な、政治的立場を表明することの社会的責務の程度が定まるのだろう。

    一つ目の価値観については明らかに嗜好だが、二つ目の性分についてはどうだろうか。理屈ではなく感情に訴える芸事に関しては、鑑賞する側からすれば、そこから人格(の強い要素)を切り離して考えるのは不自然で相当難しいように感じる。ここでは坊主憎けりゃ袈裟まで憎いという諺が否定しがたく立ちはだかる。よって、この二つ目の性分についても一つ目の価値観と同様に嗜好であり、理屈による説得等によって変えるのは困難だ。これより、政治的立場の表明の社会的責務の程度が異なっても、幸福度が同じなら社会全体の優劣はつけるべきではなく、社会としての性質が異なるだけの話だと考えたほうが適切なように思われる。

    ここで、政治的立場の表明の社会的責務とは別として、ある人の政治的立場の表明によって聴き手はその人のそれ以外の事象(例えば、ある人が芸能人ならその芸に接すること)を避けるべきではない(芸能人の政治的発言と芸事は切り離して考えるべき)、と規定された世の中の方が、言いたいことが言いやすいから社会全体としては幸福なのではないか、という論点についても書いておく。それはおそらく、政治的立場を表明したい人にとっては幸福かもしれないが、聴き手にとってはそうでもない気がする。意見を聞く側からすると、憧れの人や親しい人が自分と反対の政治信条の場合はそれを聞く機会も増えることになる。そこで多少なりとも嫌な気持ちになるのが通常であり、それがさして気にならない聖人が大半を占める社会は想像できない。

    そこに先の「それ以外の事象を避けるべきではない」といった先の規定が加わるとどうなるか。会うのを避けたいほど意見の異なる人間に対しては相応の対応をしたいのが自然であり、その規定によって心理的に抵抗が生じそうな状況では欲求不満が溜まらないか気掛かりだ。この規定は、少々表明する側に寄った見方のような気がする。聴く必要性のない、聴きたくない意見を聞く機会を減らす知恵もあっていいと思う。政治的立場の表明に対してどのような態度をとるべきか、どのような態度まで許されるべきかはその社会の成員が決めればいいことに過ぎない。そして、その態度が乖離している二つの社会を想定すれば、この二つの社会もまた、幸福度が同じなら優劣ではなく成員の性質の違いであると捉えたほうが適切だろう。

    これ以上はもう、好き嫌いでしか語れないことだと思う。私は政治的立場と芸事はある程度切り離して考えられる方だとは思うものの、どちらかというと芸を味わいたい方なので芸能人が政治的立場を表明しなくても責められることのない社会の方を、そして芸能人などの政治信条が合わなかったら現状(2026年2月の日本)の大多数と(おそらく)同様に、それを理由に避けたい場合は(と、ここまで長々と書いてはきたが、よくよく考えてみるとそんな場合はおそらくないのだろうけれど)接するのを避けたり、そのことをぶつくさインターネット上で表明しても四の五の言われない社会を望んでます。
     
     
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    今回はこの曲をどうぞ。


     
    「しあわせ」 歌は、 雛音サラさんです。ご視聴よろしくです。
     

     

  • 創られた「日本の心」神話(輪島祐介著・光文社新書) 感想 演歌はどこまで日本の心か

    演歌議連こと演歌・歌謡曲を応援する国会議員の会。2016年に以下の記事が出ています。

    日本の伝統文化の演歌を絶やすな! 超党派「演歌議連」発足へ(産経ニュース)

    演歌・歌謡曲の発展を 超党派の国会議員の会設立(しんぶん赤旗)

    これらの記事を見たときこれからどうなるのか、もしかしたら演歌歌手に相当な便宜、金銭的支援が図られることになるのかとやきもきしていたのですが、現在のところ何も起きていないようです。特定の文化、即ちそれに携わる人物に国家が援助すること自体は筋が通っていれば反対しないのですが、それでもまず本当に民間からお金を集める努力をしたのか、その検証が先にされるべき話です。クールジャパンとか今どうなっているんだろう。

    ただ、演歌は日本の心であるという主張に対しては最低限の知識は備えておいたほうがいいだろうと本書を購入しました。初版2010年、本文350ページで中身も読み応えがあっていい本でした。

     
    結論からいうと、「じゃあ昭和20年代の演歌を歌ってみてくれませんか。それ以前の時代でも構いませんので、どうぞ」と言えば解決できそうなことがわかりました。私なりの解釈です。その理由は本書をご覧いただければ自ずとわかるでしょう。

    なお、明治・大正期の社会批判の演説が演歌の発祥という説があり、私もおぼろげながら耳にしたことがあるのですが、本書では「レコード歌謡とは別の実践の論理を持つ大衆的な音楽(芸能)であった」(P62)という見解をとっています。

    その他、目に付いた箇所を取り上げていきます。

    美空ひばりについては「はじめに」で活動経歴が演歌だけではないことを前提に日本人の意識の変遷と演歌の音楽的な要素を探るための例として取り上げています(第四章でも考察されています)。そして、これは同時に本書で「演歌といえば」で始まる諸概念の考察を行うことを意味しています。

    そして、P45で以下のように述べています。

    「言葉自体はレコード歌謡の第二期に現れたものだが、その音楽的特徴は第一期のものである、しかもその語源はレコード歌謡以前に遡る、という点が、『演歌』のレコード歌謡史における位置付けを複雑にし、また歌謡史の見取り図を描きにくくしているのです。」

    確かにそういうことであれば演歌が日本の(相当昔からの)伝統だと思われても仕方がない一面もあり、そのような思い込みや、それに関連した不利益を防ぐためにも学問や研究はどのような分野であれおろそかにできないことを実感しました。

    P47のレコード大賞の「ポップス・ロック部門」と「歌謡曲・演歌部門」の分割には少し思うところがあって、バンドブームの影響でそれ以外の音楽の売り上げが減少したため旧来の業界が延命を試みた一面もあったのではないかと考えています。また、その後の演歌が商業的に成功した期間が短かった、という指摘も覚えておくべきでしょう。

    また、話はそれますが音楽史としてP62から「この注文に対して晋平は、伝統的な民謡音階(田舎節)と西洋の長音階の折衷であるヨナ抜き長音階、(以下略)」「後にしばしば『日本的な音階』として人口に膾炙することになる『ヨナ抜き五音音階』は、大正期にきわめて近代的な意識に基づいて生みだされた和洋折衷の産物なのです。」(注:晋平=中山晋平 作曲家)とあり、これも心に留めておこうと思いました。

    P77に「田舎調」の、そしてP79から田舎調を定式化した船村徹の話がでてきます。田舎、地方、土着。田舎は都会ほど変化が少ない。明治・大正からの姿、雰囲気、そして昔からの伝統がそのまま残っているように思える。だから、田舎を思わせる歌を歌うことが、演歌がそれこそ明治・大正の昔から存在するような錯覚をする一因になったのかもしれない。そんなことを想像しました。

    P319で触れられている、すぎもとまさとの「吾亦紅」(2007)。私がこの曲を聴いて思ったのは、サウンド的には松山千春の「窓」(1979)のようなものなんじゃないかと。で、聴いてみたら後者は案外バンド的なアレンジがされていたのですが、それでも前者がサウンド的に演歌・歌謡曲のカテゴリに入るのは納得できないものがあります。

    他にも作家(作曲家)に対する歌手の専属制度など昔の芸能界についての説明も興味深く読めました。また、作家・五木寛之の章では本書の主題とは別に氏の構成力の高さがうかがえて説明だけでも驚き感心しました。(氏の作品は未読であり、またその作品の主題に同意したわけでもないです。)

    演歌についてはまた後で何か書くかもしれませんが、最後に「日本の心」という表現について。まず、日本の心とは日本人の心であり歌や音楽については各々異なる見解が多々あることから演歌もまた日本の心の一部ではあるのだろうけれどそれ以上の存在、例えば代表ではないこと。次に、演歌に限らず「○○は日本の心」と表現に出くわしたときに、特に○○と同ジャンルの事物は思考から排除されがちになるので気を付けること。ここではこの二点を指摘しておきます。
     
     
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    今回は、意図せずして演歌っぽい曲になったこちら、


    「いつか会う日には」歌は冷声ゼロさんです。
     

     

    今回は音楽関係の本の特集です。