それにしても宗教はすごい。おそらく人類にとって最も興味を惹き付けてきた存在だろう。宗教に基づく熱意は、日常の儀礼や非日常の祝祭の行事など様々な形で、時に静かに、時に賑やかに現れている。日曜日の教会での礼拝、バグダッドへの聖地巡礼、除夜の鐘、初詣など枚挙に暇(いとま)がない。そして、その影響力によって多くの人が救われ、多くの人が殺された。十字軍然り、イスラム国(イスラミック・ステート(IS・ISIL)、ダーイシュとも)然りである。
宗教がここまで人々を動かしたのは、何と言っても「死後の世界における安全・安心の確約」の概念を発明したのが大きい。ほぼそうとしか思えない。よくぞ「死後の世界」などという、途方もない設定を考え出したものだ。この前提となる「(肉体から分離した)魂」と併せて考えると、人間の想像力はあまりにも卓越していることを感じずにはいられない。これは死後の世界の亜種ともいえる「輪廻転生」もそうで、死後、何かに生まれ変わるだなんて、そんな続きが気になる設定を創造したことに深く感心する。おそらく、死後の他者や自分の意識、心がどこかにあって欲しいという願望とともに考え抜いた結果なのだろう。死者の心が自分の感知できない、そして自分の望む所へ……例えば、親切だった人は安らかな所へ、危害を加えた人はその罰を受ける所へ向かってほしいと思えば、それが天国、あるいは地獄になる。輪廻転生には、身近な生き物に宿ってでもそばにいて欲しいといった要素も入っているように感じられる。睡眠時の夢や臨死体験での幻覚がその想像に作用した可能性もあるが、今となっては、その過程を知る由もない。
これらの「死後の世界の安全・安心の確約」が宗教たるものの太い中心軸であり、人間にとっての最大の関心事であろう。宗教の対象として他に「現世利益」があるが、これは幾分求心力が弱く感じられる。ここに宗教についての一つの鍵があるように思える。大抵の人にとっては現世利益より死後の世界の安心・安全のほうが重大だが、確かに存在して叶う可能性が高いことよりも、存在が未確定なものに関することを願うこと……「信じる」ことに対して熱心であることに、重大性に収まらない理由があるような気がしてならない。
それを一言でいうなら、人間には、途方もないことを、そしてそれを未確定なまま信じるほうが気持ち良く感じる性質が備わっているのではないだろうか。
自分自身に関して言うなら、フェルマーの最終定理に対してある種のロマンを感じた覚えがある。もちろん証明される前の話である。x^n+y^n=z^n(nは自然数でn≧3)を満たす整数は存在しない。ワイルズによる論文の正しさが認定されたのは1995年であるが(*1)、それまでは「そうなのかもしれないが、本当にそうなのか」と、数の世界の不思議さと遠大さを想い、証明に関するニュースを聞く度に期待と不安が入り混じった気分になった。未確定だからこそ、その可能性を信じることが不安を打ち消すほどの期待の強さ、すなわち気持ち良さにつながり、その対象が大きいほどその度合いが強まる、あの時のことを思うとそう考えるのが最も適切なように思える。
その概念的な分野における、大きな対象の究極が神などの超越的な存在であり、そして「死後の世界」なのだろう。設定が大きく、遠くなるほど存在に対する期待が膨らみ、そして証明までの距離は遠くなる。つまり、信者にとってはいつまでも、それこそ世代を超えても対象の存在が未確定のままで信じることができる。また、その距離の遠さは「強く」信じることを要請されているといえる。強く信じなければ、その対象を心に重ね合わせられないからだ。加えて、共同体の一員でなければ生きられなかった時代であれば周囲の宗教に合わせるのはそれこそ必然であり、住む所や職業の選択肢などが少ないことが更に信仰心を強く保つことに作用したものと思われる。
そうして信じている間、祈っている間は夢見心地なのと近い感覚にある気がする。現実を離れ、意識をそこまで没入するからこそ対象と深く結びついて満足感、充足感が得られる。これをある種の快感に分類しても、そう大きくずれてはいないはずだ。あるいは、こうも考える。人類が、信じたり祈ったり願ったりする度にひどい頭痛がするような体質であれば、宗教は身近な存在になり得たであろうか。何事も、強く信じる行為自体にはある程度の心地良さが入り混じる。その心地良さ自体は、マッサージを受けたときに得られる体感によるものと本質的には変わりないのではないか。しかし、願うにせよ祈るにせよ信じるにせよ、自分の意思によって引き起こした点において、その感覚が体感によるものと類似しているという意識は生じないまま、満足感、充足感、そして達成感が残る。信じるということを考えると、そう思えてならない。
達成感については、重要な要素のように思えるのでもう少し考えてみる。日々の日課として、お祈りなどの宗教的行為を行ったとする。仕事のように目に見える成果が求められるわけではないので、時間さえあれば可能な、比較的簡単に成し得る行為だといえる。そして、お祈りの最中の満足感、充足感にその終了時の達成感が加わる。小さいながらも、成功体験ともいえるだろう。その行為を繰り返すことでどうなるか。
「報酬系」という言葉がある。脳の働きについての表現で、報酬とは脳の快感のことであり、食事や称賛の他に達成感によるものも含まれる。報酬系とは、報酬とそれに関連する行動の変化のことで、刺激とそこから得られる情動との連合を学習し、予測に基づいて適切な(例・報酬が最大になるような)行動を選択すると言われている。その予測の結果生じたやる気も報酬系の行動の変化のうちに含まれる。また、記憶とも密接に関与し、受けた感覚情報を過去のものと参照して評価することにも関わってくる。そして、予想より良い結果を得られた場合は報酬を得るための脳の働きが強化され、逆に得られなかった場合はその働きが弱くなる、予測誤差仮説も提唱されている(*2)。
もしかしたら、恒常的にかつ真摯に超越的な存在に向き合うことや、生きている間にはたどり着けない遠い世界に思いを馳せることによって、些細な達成感であっても幾ばくかは脳内のシステムが信仰心の強化に寄与することが生じているのかもしれない。日頃の習性による心情の変化が脳の作用としてどの程度説明され得るのか、もう少し詳細な情報がほしいところではある。
信仰心、というか実在を信じる心情についてもう少し書いておきたい。超越的な存在や死後の世界の知識を得ても、始めからそれを丸々信じる人は少ないと思う。しかし、人間は意志によって何らかの行為を行う一方で、行為を行うことによって意志(心)が追随し形成される、そんな側面もあるように思える。つらいときでも作り笑いをすることで、ひと時でも心がほぐれる、そんなことはないだろうか。簡単な宗教儀式、例えば鳥居の前で礼をするとかでも、もしかしたらそこに神が居るかもしれない、少しだけ、そんな気分にはなる。そのような行為を繰り返すことで、実在感が強くなる、そんな作用もあるのかもしれない。そしてそれは、神が誰でもわかるように観測されないからこそ、超越的な存在を実在するように思える特別な感覚を持つ自分は特別な存在である、という感情、ある種の快感もまた実在を信じる心情を補強し、超越的な存在や死後の世界が更に確固たるものに思えてくる。そんな思考が芽生え、定着してもそう不自然だとは思えない。
少し話をまとめてみる。宗教は「死後の世界」や「超越的な存在」といった強く興味を惹く概念を創造した。それらは人々の希望であると同時に、証明できない性質を持ち合わせている。宗教的行為は人を心地良くさせ、更に、証明できない性質であるが故に対象に対する強い信仰心が求められ、それに応えるように強い信仰心が形成される。宗教的行為の反復ならびに設定を肯定する宗教的行為自体に、信仰心が強化される性質がある可能性もある。
これらの点において、考えておきたいことがある。人類は、今後宗教とどう付き合うか。冒頭で述べたように、宗教によって多くの人が殺されている。これを抑止するためにはどうすればいいか。人類が、永遠の死後の世界を夢見るという無上の愉しみを、希望を手放せるわけがない。しかし、何らかの節度を設け、心掛けることで攻撃的な精神を緩和することはできないものかと思う。二つ考えてみた。
一つは、周囲に対する感謝の念の強調である。「上に祈る前に、周りにできるだけの感謝を」。どう考えてもこの世界で生きていくためには、一人では生きられない以上、存在するかどうか確定できない何かより現実に存在している人間を意識したほうがいい。そして、周囲、つまり対象となる自分に関わる人間をより多く想像することを心掛けた上でこの感謝を続けることで、次第にその人間の範囲が直接的に関与している人から間接的に関係している人まで、当然海外の国にまで広がっていくことだろう。そこで、他者でしかなかった人間が自分に関与していたことに気が付いたとき、その攻撃の手も幾分緩むのではないだろうか。
もう一つは、人間には先に述べた宗教的行為の反復により、信仰心が強くなる性質がある可能性の自覚である。継続による変容と行動による変容を知識として蓄えること。そして、自分の信仰心の深化を客観的な視点で観測すること。これらを合わせて考えることで、死後の世界や超越的な存在の確信が人間ならではの「性質」に過ぎないと捉えられれば、宗教的価値が至上のものではなくなり、それに基づく他者への攻撃も抑えられるのではないかと思う。もしかしたら、他者への善意も控えめになるかもしれないが、それは宗教的価値に基づかなくても可能なはずだ。
この二つを、公的な教育機関などで広く伝えられないかと思う。教義を直接否定しているわけではないから、既存の宗教と強く反発する要素はないはずだ。だが、同時に難しい問題なんだろうな、とも思う。真っ当な筋道の理屈抜きに、教義に対する帰依を、精神的に従うことを要請するのが宗教だからだ。人との結び付きより超越的な存在との結び付きを重視し、人の心に対して俗世よりも架空の素晴らしい世界への跳躍を志すのが宗教だからだ。
そして、宗教的価値はその宗教を信奉する仲間内で価値があることと、その価値が他者に影響を及ぼす際には他者から反発される可能性があること。これらも広まってほしいと思うが、宗教全ての否定と思われかねないので難しい面もある。また、これらは他の価値についてもかなり当てはまることかもしれないが、念のためここでは保留しておく。
上記の対策と心構えを根付かせるのは容易ではないだろう。残念ながら、これ以上はいいアイデアはない。あとは、世界に対する権威となりうる、国連による推奨や(できれば世界中の)マスコミによる連携したキャンペーンが望ましい、ぐらいしか思いつかない。
そして、これから人類は宗教とどう付き合うべきか。先の対策と心構え、そして改めて宗教の設定を架空のものだと自覚した上で深入りし、宗教ならではの死後の世界などの思考に浸りつつ現実の生活と折り合いをつける、それを目指すのが最善だろう。
*1 https://www.js.kuas.ac.jp/shs/blog/2016/03/08/%E8%B6%85%E6%95%B0%E5%AD%A6/ の『「科学と芸術」第5弾 フェルマーの最終定理 2018年9月』のPDF、https://www.js.kuas.ac.jp/shs/wp/img/2018/06/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%9C%80%E7%B5%82%E5%AE%9A%E7%90%86-3.pdf より
なお、この手の数学の未解決問題は他にも多数ある。例えば、3と5、11と13、29と31のような差が2である素数(1とその数以外では割り切れない、2以上の自然数)の組、双子素数は無限に存在するか、というのはどうだろう。「数学 未解決問題」でインターネットを検索すれば、このような問題を色々と目にすることができる。
*2 毛内拡 著『脳を司る「脳」』P127(講談社ブルーバックス)、五反田ストレスケアクリニック『ドーパミンシリーズ3:ドーパミンと報酬系の仕組み~「やる気」と「快楽」を生み出すメカニズム~』 https://gotanda-seishinka.com/column/%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA%EF%BC%93%EF%BC%9A%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%81%A8%E5%A0%B1%E9%85%AC%E7%B3%BB%E3%81%AE%E4%BB%95/
とりあえずこの記事は以上です。何かあったら付け足します。
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