問いかける法哲学(瀧川裕英 編)第I部 自由 05 チンパンジーは監禁されない権利を持つか? 考察と感想

ブックオフで中身チラ見して面白そうだったので買ったこの本、初めの01~04については少しずつツイッターでつぶやいていたのですが、表題の05については色々書き連ねていたら長くなったのでこちらに書くことにしました。

本書「問いかける法哲学」(瀧川裕英 編、法律文化社、2016年初版)の、各章の執筆者は以下の通りです。

第I部 自由
01 ドーピングは禁止すべきか? 米村幸太郎
02 自分の臓器を売ることは許されるべきか? 鈴木慎太郎
03 犯罪者を薬物で改善してよいか? 若松良樹
04 ダフ屋を規制すべきか? 登尾章
05 チンパンジーは監禁されない権利を持つか? 野崎亜紀子

第II部 平等
06 女性専用車両は男性差別か? 松尾陽
07 同性間の婚姻を法的に認めるべきか? 土井崇弘
08 相続制度は廃止すべきか? 森村進
09 児童手当は独身者差別か? 瀧川裕英
10 年金は世代間の助け合いであるべきか? 吉良貴之

第III部 法と国家
11 裁判員制度は廃止すべきか? 関良徳
12 女性議席を設けるべきか? 石山文彦
13 悪法に従う義務はあるか? 横濱竜也
14 国家は廃止すべきか? 住吉雅美
15 国際社会に法は存在するか? 郭舜

まず「権利」に関する私なりの考察を、次いで本章の感想を書くことにします。

「権利とは何ぞや」と問われると、とどのつまりそれは「設定」なのではないかと考えています。みんなが幸せになるための、この世界の設定。要はそういうことだと思うのです。

絶対王政なら王や側近の意見が重んじられたり、また法的な話ではなく商売、経済の話なら人数×経済力なんて式が浮かびます。しかし、民主主義の社会では多数の構成員の価値観が法に反映されます。よって、法によって定められ、また法の礎となる権利の概念についても、ある価値観について支持する人が多ければ多いほど、その価値観の影響を受けやすくなるといえるでしょう。

(寄り道1)もっとも、経済的に弱い立場にある共同体はその価値観を他から批判された場合、不買運動など商取引への影響を恐れてその共同体に追従するように価値観の変更を迫られるかもしれません。その意味では経済力も価値観に基づく権利に間接的に影響を及ぼす要素になりえます。その意味では、軍事力も同様に価値観に影響を及ぼす事態が生じるかもしれません。結局は共同体の強弱も価値観や権利に関わる要素になりそうです。(寄り道1終わり)

そして、このことは大多数が何か他のものに重大な価値を見出だし権利を与えるべきだということになったら、理屈はどうであれそれがたとえ椅子のような無機物であっても、そのようなものが権利を得ることを意味します。

今は、動物などの人間以外のものには人間のような権利はありません。何故か。聞いてみた訳ではないのですが、大多数の人がどう考えているか、おおよその見当はつきます。

まず、ある属性(本章の言葉の「意識を失い回復の見込みがない遷延性の意識障害者」がわかりやすいのですが、別に劣った属性でなくても同じように考えられます)の人間から権利を剥奪するのであれば、自分が人間である以上は事故とかでその属性を持つかもしれないので、自分の権利が奪われる可能性がある。となると、どんな人間にも権利を与えておく、言い換えれば権利を剥奪しないほうが保身に役立つというわけです。つまり、ある意味保険を掛けている、とも言えます。

それとは別に、積極的な理由も考えられます。それは、人間を最も幸せにできるのが人間であるということです。確かな質と量の食料を生産して手の届くところまで運んだり、あるいは住まいやガス電気水道を使えるようにしているのは誰(何)か。ケガや病気になったときに、誰(何)が助けてくれるのか。どれも人の手が必要です。よって、自分自身を守るばかりではなく、より良い人生を送るためには他のものより人間に特権を与えたほうがいい。これは、実利を重視した当然の結論です。

しかし、これらの働きは人間よりも優れた何か(AIロボットとか)に将来とって変わられるかもしれません。それなら、我々人間はその優れた何かに同等の権利を与えるのか……というと、おそらくそうはならないでしょう。そこにもう一つの考えられる理由が浮かびます。我々は誰(何)を愛するか、愛されたいか。大多数の人間が、そこに人間の存在を念頭に置いているはずです。

つまり、我々人間は愛情、即ち本質的には好き嫌いに近い感情で権利の主体を決めている部分が大きい。ただ、これは逆に考えると、人間が「人間よりも優れた何か」や「椅子」を人間よりも、特に自分自身よりも強く愛するようになったら、それらに権利が与えられてもおかしくはないと私は考えています。

更に付け加えるなら、何の役にも立たなかったり、むしろ人間に危害を加えるものであっても、上記のような理由で権利を与えるのを皆が良しとするならそれらにも権利が与えらえる。すぐには起きそうにないことですが、この先はもしかしたらそういうこともあるのかもしれない。

まとめるなら、我々人間はどんな理由や理屈であれ、権利を与えたいものに権利を与える、ということだと思います。現状も、「『我々は、~への権利を認めるべき』という言い方で示されるような、あたかも人類全体を射程に入れた守るべき正義や道徳などの価値観がある」と仮定するよりも、「『は、~への権利を認める』という個々の意見の大多数が反映されている」のが実態なのではないでしょうか。

そして、権利を与える「みんな」の範囲をどうするか、どこまで広げてどの程度まで権利を認めるか、ということを考えるための材料を提供しているのが本章だと言えます。「種族(人間、人間の社会)」と「能力」のどちらを優先させるか、が最大の対立軸となっています。

(寄り道2)ここで他の本を一冊紹介します。「脳を司る「脳」 最新研究で見えてきた、驚くべき脳のはたらき」(毛内拡 著、2020年初版、講談社ブルーバックス)はタイトルの通り脳についての本なのですが、実験にネズミを使う際にネズミにどのようなことをしているかが詳細に書かれているだけでなく、今、実験のためにどのように動物に接しているか、それについての読者に対する語り口まで含めて、この問題に関心のある方にはヒントになるところもあるのではないかと思いました。(寄り道2終わり)

動物については、無益な殺生には嫌悪感を抱くが有益な用途に使う分には躊躇しない、ただ、絶滅が危惧されるような種については手を出さない、と考える人が大多数だと思います。ただし無益や有益の幅の感覚、本章でいうところの「動物の福祉」の考え方や「虐待を含む動物への不当な扱い」については個人や集団の間に差異が生じるので、その幅を可能な限り尊重して折り合いをつけるのが各個人・集団の価値観の保護や精神的満足度、つまり最大多数の最大幸福に繋がると思うのです。

ここで考えておきたいのが正義や道徳などの根幹となる「善」という概念についてです。他の事柄にも当てはまる場合があると思いますが、本章の問題については、善とは自分の価値観を周りに近づけること(これは、周りを説得してその価値観を自分に近づけることを否定しない)であり、それ以上の意味合いは無いのではないかと考えてます。

ここで、その過程で自分と周囲との関係に焦点をあててみると、周囲の意識や思考力によって価値観が左右されることは当然あると思います。自分と反対の価値観を持つ者に苦手意識を抱く。あるいは、その者が自分より優れた存在だと思い込んだ時点で思考を止めてしまう。自分の考えを言葉にまとめることに慣れてなかったり、仕事や家事その他でじっくり考える時間がとれなかったりして、声高に強固に主張する個人や集団に引きずられる。自分と逆の意見がマスコミで大きく取り上げられると、自分の考えを広く伝える機会や能力のなさと対比してしまい、特に利害が絡まなかったり、思い入れの少ない対象に関しては深く考えることなくその反対の価値観を新しいルールとして受け入れてしまう。対人関係や、場合によっては収入への悪影響を危惧して意見を発信することに躊躇し、結果として意にそぐわない考えばかりが溢れる……これらはいずれも各要素の強弱の反映にすぎません。自分の意に反した意見を見かけたり、特にそのような意見が蔓延(はびこ)っているように感じたときは、その意見を採用することで本当に社会が良くなるのか、その考えは綿密な調査や思考に裏打ちされていないのではないか、という疑念は心底納得したのでなければ残しておいてほしいものです。

ここで言いたいことは大体書き終えたのですが、一つ気になる言い回しがあったので紹介します。「種族主義 speciesism」という言葉で、本章では以下の斜体のように紹介されています(あくまでも「紹介」であり、執筆者の主張ではないので注意)。下記の「基準」は創造物として下等か高等かの、ひいては権利を優先させるべきかどうかの基準という意味です。

(『問いかける法哲学』 P81-82)
  本来、能力の有無を基準にする考え方に基づくならば,答えはそのとおり,彼/彼女らはチンパンジーよりも「下等な創造物」なのであり,したがって彼/彼女らよりもチンパンジーのほうが道徳的配慮は優先されるべきである。もしそれはおかしい,彼/彼女らは仮に能力がないとしてもなお,チンパンジーよりも道徳的に手厚い配慮対象となるべきだ,と主張するのであればそれは能力の有無ではなく,彼/彼女らが,人間だから●●●●●という理由で,道徳的配慮がより手厚くなされるべきだというのであり,チンパンジーは,人間ではない動物だから●●●●●●●●●●●という理由で道徳的配慮の対象とはならない,と考えているからである。それは,かつて人間と奴隷とを分けていたのと同様に,白人と黒人とを分けていたのと同様に,あるいはまた男性と女性とを分けていたのと同様に,人種差別や性差別といった考え方と同根の「種族主義 speciesism」に基づいているのだ。
  以上の見解をふまえて、(以下略)

普通「差別」という言葉は人間に対してしか使わないので、上記は「人間もチンパンジーも同等である」という見方を示しているのにすぎません。 私は、人間とチンパンジーや他の動物、生物とは同等ではない、という見方です。もちろんこれも正義や道徳といった、こう考える「べき」といった言い方で語られるものではなく、こういう考え方が好みに過ぎないという話ですが、社会について考える上で一つ理屈を付け加えておきます。

なぜ同等でないのか。種族主義という言葉を使う以上は、まず人間という種、チンパンジーという種、ゴリラ、ネコ、イワシ……という風に、種族ごとに区切りをつけて考えるべきでしょう。そして、人間と人間ではないある種の生物Aは同等の仲間だ、と考える人たちがいたとします。その場合、人間とAとは本当に同等だ、とその人たちが考えることができるのに対して、人間ではない生物Aは、自分たちAという種と人間が同等の仲間だ、と認識できるだけの知性はありません。よって、人間という種は総体として人間(と人間以外の種)を助けることができますが、人間ではないある種の生物の総体がその種以外の種を同等の仲間として助けるようなことは考えられません。我々はより幸福になるべく社会を構築してきて、そしてその社会が存在する上で権利を持っているのです。よって、人間を同等の存在として助けることができず、義務の概念を理解することもない、つまり共に社会を構築することのない種の総体に権利を付与するのは過剰な保護だと感じています。なお、能力的に人間を助けられない人間の総体に対しては、先に述べたように自分もそうなったときの保身・保険の意味合いや人類が人類に対して愛情を抱いている面からも、より良い世の中を作り上げ、各人の幸福を満たすためには同等の権利があるべきだと考えています。

(かなりの寄り道3)もっとも、将来科学が発達して、人間もチンパンジーやゴリラやネコやイワシになれるかもしれない(それらの動物のような思考しかできなくなった状態。元には戻れるものとする)。ここで、「動物になった元人間」を仲間とみなすか否か、という問題が出てきます。この状況下では、自発的に動物になるのではなく、無理やり動物にさせられることもありえます。これをある種の長期の意識障害と考えるのが妥当か、あるいは元人間の動物に対して人間と同じように心情を寄せるようになるか……動物(生来の動物を含む)と人間との心理的な距離が近くなり、人間に対する扱いと同じようになってくるのではないか、そんな感覚があります。この場合、動物を愛する人にとっては「元人間の動物を生来の動物と同様に扱うか」という問題も生じることでしょう。または、動物の中の元人間の動物の割合によって反応や態度、権利の程度が変わってくる、そんな気もします。そんな状況を利用した、動物を愛するが故に自ら動物になって紛れ込む人も出てきそうです。そして、元に戻る気がない場合(動物になる際にそのように宣言していた場合)は自殺、戻れなくなった場合は事故による死とみなせるか……そんな世の中が来そうなときに考えればいいにせよ、この本章の話題について考えるヒントは色々あると思いました。(かなりの寄り道3終わり)

最後に、この「チンパンジーに権利を与える」ことについて、少し別の角度から捉えてみたいと思います。人間以外の何かに権利を与えることによって我々の自由度は狭まる、言い換えれば制約、規律が増えることになります。もしかしたら制約や規律を守ることで自分の信じる価値観への帰属意識が高まり満足度が高くなる、制約や規律が増えたり厳しかったりするほど、己を律しそれらを遵守することで自尊心が高まり、ある種の快感(満足度)を得る脳の働きがあるのではないか……そんなことも考えてます。

そして、そんな自尊心の高い人たちは、その自尊心の反作用的に、それらの制約や規律から無縁で遵守しない人々を見下すような言動をしているのかもしれない。そして、見下された側は悪くもないのにそれだけで心が凹んでしまうものなのかもしれない。ただ、誰かから制約や規律を押し付けられそうになったとき、それに従うか抗うかを決するのは、やはり強いか弱いかだと思うのです。結局は。こう書いていても辛くなるのですが。どこまでやればいいのだろう、と。普段、物事をどれだけ考えているか、考えを上手く表現できるか、信頼を勝ち得ているか、人気があるか……などなど。それが集団ごと、国ごとの話であれば、個人で対処するのは難しいにせよ、経済的にも、もしかしたら軍事的にも弱いよりは強いほうが不利な状況になりにくいのだろう、ぐらいのことはいえると思います。要は自分の好きな価値観を、ある意味そんな世界を守れるか守れないかは日々の努力と成果の帰結であり、守るためにはできるだけ多くのことを考えられるだけ考えて生きていくしかないのだろうな、と身に染みて感じているところです。

今後も本書を読んで思いついたことを書いていく予定です。ツイッターかブログかはその時次第で決めます。世の中について考えてみることも結構やりがいがあるものなので、当記事が皆様にとっても考えるためのいい切っ掛けになれば有難く思います。
 
 
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今回はこの曲をどうぞ。


「星の夜のたからもの」 歌は、初音ミクさんです。
 

 

最初のほうにあるのが現時点での超おすすめブックスです。「明治・父・アメリカ」は星新一の小説です。

ゾウの時間…は「ゾウの時間 ネズミの時間 ―サイズの生物学」です。

天才数学者たち(略)は「天才数学者たちが挑んだ最大の難問―フェルマーの最終定理が解けるまで」です。「代替医療解剖」までの18冊が超おすすめです。

先に紹介した他に、子供(小学校中~高学年程度)のうちにに読ませたい小説を三冊はさんでおきます。もちろん、大人にとっても十分読み応えのあるおすすめの本です。

現時点で、その次に読んでおきたい本がこちらです。

意外なことを決めつけるような記述に対して「本当かな?」と立ち止まる心を忘れないのなら(本当は、どんな本を読むにしてもわきまえておきたいことなのですが)、お勧めの本です。

意外に軽い気分で読める本も紹介します。なかなか面白かったです。

こちらも軽い気分で読める本です。面白かったです。

その後の本も気が向いたら是非ご一読を!

・神話
「図説 地図とあらすじでわかる!…」は風土記の本です。誤植には目をつむって欲しい……

・歴史
この一冊で「戦国武将」(略)は「この一冊で『戦国武将』101人がわかる!―――戦国時代を読むものしり辞典」です。

物語…は「物語 北欧の歴史」です。

・文化史・民俗史・宗教史

・政治

・外交

・憲法・法律

・人文・思想

・社会・経済

・自然科学

・芸術

・文学作品・小説など

・よりよい生活のために

ここから音楽本特集です。ミュージック・マガジン…は「ミュージック・マガジン 11月増刊号 NU SENSATIONS 日本のオルタナティヴ・ロック 1978-1998」です。

BAND…は吉田豪がバンドブームの時代のミュージシャンにインタビューした本「バンドライフ」です。その向かって右隣りの本も同じようなインタビュー本です。

ここからは音楽を考えるための本を集めてみました。「創られた『日本の心』神話」は演歌について徹底的に調べ上げ、その実態を検討した本です。

最後に、読んで面白かった漫画です。ちょっとマイナー志向?