• タグ別アーカイブ: 法哲学
  • クオータ制(クォータ制)に関する考察 問いかける法哲学(瀧川裕英 編)第III部 法と国家 12 女性議席を設けるべきか?に対して

    先日、書籍「問いかける法哲学」(瀧川裕英 編、法律文化社、2016年初版)の「第I部 自由 05 チンパンジーは監禁されない権利を持つか?」についての記事を書いたのですが、本章「第III部 法と国家 12 女性議席を設けるべきか?」(執筆者:石山文彦)についても当ブログに考察と感想を書くことにしました。他の章についてはツイートにつぶやいており、またブログの記事にもしましたので、そちらを見ていただければと思います。

    私は、男女の議席数は「結果として」ほぼ同数になるべきだと考えています。「なるはずだ」のほうが的確かもしれません。ただ、私の考え方は一般の考え方とおそらく違うので、まずそれを説明します。

    どんな人間によって国会の議席が占められるのが理想といえるか。私は、国会の議席は国政に秀でている者の順によって占められるべきだと考えています。国政に秀でている者とは、政治の手段で国民全体を幸せにできる者のことです。そして、国政に関する能力は主として知力なので男女で差はないはずです。また、政治に関することについては男女ともに同様に教育を受けているはずです。となると、国民から国政に秀でているものを上から選ぶと、男女はほぼ同数となるはずです。

    しかし、男女共同参画局・女性の政治参画マップ「女性の政治参画マップ2022」カラー版(令和4年9月作成)(PDF)によると、2022年7月の時点で衆議院に女性が占める割合は9.9%、参議院では25.8%であり、いずれも男性が極端に多くなっています。これは、男性と同じぐらいいるはずの、国政に秀でた女性が活用されていない、という面で由々しき事態だといえます。これは、日本に匹敵するライバル国(架空の国でも可)を思い浮かべて、その国が国政に秀でた人材をうまく採用してゆく状況を想像すればわかりやすいと思います。男女の議席数がほぼ同数で、政治をより良く進めることで国民が豊かで幸福になり、おそらく国際的影響も大きくなる……幾らかは危機感というかある種の「もったいなさ」を感じていただけるかと思います。

    本書「問いかける法哲学 12 女性議席を設けるべきか?」(以下、「本章」)の視点はそうではなくて、この国には大多数の女性(私は性別を属性の一種と捉えています)がいるのに議席にその数が反映されていないので、女性に関する諸問題が解決されていない。私はそのような主張であると解釈しました。

    以下、本章の文章の引用箇所は斜体で示します。

    総務局統計局・人口推計の結果の概要「人口推計- 2022年(令和4年)9月報 -」によると、2022年9月1日の時点で日本の総人口の女性の割合は、6412万人女性人口)÷12475万人(総人口)×100≒51.4% となります。さて、今の日本で比較的多い属性といえば他に何があるか。先の人口推計に記載された総人口の男女計の0歳~49歳までの人口を足してみると、426+496+……+948=6360万人。また、これらには及ばないものの、総務省統計局・労働力調査(基本集計)2022年8月(e-Stat)「15歳以上人口 I-4 就業状態・従業上の地位 ・雇用形態(非農林業雇用者については従業者規模)・雇用契約期間・農林業・非農林業,配偶関係・年齢階級別15歳以上人口」 によると、非労働人口(セル番地:O104)が4086万人もいます(うち15~64歳が1400万人、セル番地:P104)。

    また、厚生労働省・令和3年賃金構造基本統計調査 結果の概況にある「印刷用資料のダウンロード 概況」(PDF)の付表3(紙面P19、PDF P21)によると、賃金階級が300万未満(~ 99.9 (千円) ~ 280.0 ~ 299.9 (千円))の一般労働者の割合は0.1+0.4+……+6.6≒60.8%にのぼります(短時間労働者を除く)。この調査は約5万弱の事業所から得られた回答を集計したものですが、この結果が全国規模で適用できるとするならば(*)、先の労働力調査の表より全国の正規の職員・従業員の人数は3589万人(セル番地:O28)、非正規の職員・従業員の人数は2121万人(セル番地:O29)なので、賃金階級が300万未満の一般労働者数は(3589+2121)×60.8÷100≒約3472万人となります。

    * 令和3年賃金構造基本統計調査が行われたのは2021年7月であり、その対象は2021年の6月分の賃金等(賞与、期末手当等特別給与額については2020年1月から12月までの1年間)なので、以降の計算もあくまでも目安として捉えていただければと思います。

    次に、一般労働者よりも労働時間が短い短時間労働者について検討してみます。大雑把な計算になってしまいますが、時給1500円で、一日8時間、月20日、12カ月働いた場合の収入は1500×8×20×12=288万円となります。労働時間が短いので、これより時給が少なければ年収300万円を上回ることはないと考えられます。先の賃金構造基本統計調査の「印刷用資料のダウンロード 概況」の付表4(紙面P20、PDF P22)によると、短時間労働者のうち時給1500円未満の者(~ 599 (円) ~ 1,400 ~ 1,499 (円))が占める割合は0.1+0.1+……+3.4=83.9%であり、同様に全国規模に適用できるとした場合、先の労働力調査のパート・アルバイトの人数が1501万人(セル番地:O30)なので、時給1500円未満の短期労働者数は1501×83.9÷100≒約1259万人となります。

    なお、賃金構造基本統計調査(「印刷用資料のダウンロード 概況」の「主な用語の定義」(紙面P4、PDF P6))と同じく、この労働力調査のパート・アルバイトも「1日の所定労働時間が一般の労働者よりも短いものか、1日の所定労働時間が一般の労働者と同じでも1週の所定労働日数が一般の労働者よりも短いもの」となっているので、両調査のパート・アルバイトを同一視することに定義上は問題ないと思います。ちなみに、賃金構造基本統計調査の付表3、付表4は統計表にExcelファイルとして公開されています。

    時給1500円未満の短期労働者数と賃金階級が300万未満の一般労働者数を合わせると、約3472+約1259=約4731万人となります。

    あと、気になって調べてみたのですが、厚生労働省「はじめに ~花粉症の疫学と治療そしてセルフケア~」によると、「ある最近の調査によるとスギ花粉症の有病率は全国で20%を超えると報告されています。」という話も出てきました。

    本章ではクオータ制(P202 「女性議席の設定を主として念頭に置きながら,民主制の下で女性議員の増加を目指して何らかの形で女性を特別扱いする措置」、なお、本章での表記は「クォータ制」)(クォーター制、クオーター制とも)の導入について考察しているのですが、ある属性の者が国民全体に占める割合が議席に反映されていないことが問題ならば、49歳までの者、最近まで非労働者だった者や年収が300万に達しなかった者、花粉症で悩んでいる者の議席が実態より遥かに少ない場合も、就職状況や年収、病状を理由に女性と同様に議席について特別扱いする措置やそのための議論が必要なのではないでしょうか。

    この議論の大元は、国民の属性を人為的に議席に反映させることの是非だと感じています。私は、特定の属性に加担するように議席の配分に関する制度に手を加えて議席への反映を図ることには反対です。

    まず、議席の配分を属性、つまり実情から乖離しないようにできるか疑問で、二つか三つの属性について議席を調節しようとしただけで、「あちらを立てればこちらが立たず」のような無理が生じてしまう気がします。あらゆる属性に対してこれを突き詰めることは国会の議席を日本の縮図とすることと同義ですが、「国政に秀でている者」の基準を若干緩くした上でも衆参720名程度の議席を国民の各属性を反映するように配分することは到底無理だと思います。

    そして、国会議員の属性を実情に寄せるべきであるという志向によって、社会を営む上で非常に大切なものが失われる気がしてなりません。それは何か。

    政治家には様々な能力が求められます。不幸を減らすために、あるいはより良い暮らしができるように、慎重に吟味した上で法律を立案したり、予算を配分したりできるか。場合によっては、新たに省庁や官庁を設立したり、逆にまとめたりして行政機構を再構築することもあり得ます。その根本となっているのが他者の立場への想像力ではないでしょうか。他者にはなれなくても、他者を思いやることはできるはずです。日本は北から南まで気候が多種多様で、そして分業が進んで様々な職業が存在して、その上に我々の暮らしが成り立っている、これだけでも国民全体として数多くの属性があることが想像できると思います。

    それに対して各個人の持っている属性は遥かに少ない。それは政治家も同じことで、持てる属性は限られているにも関わらず国民の幸福を考慮して上手く国政を司るには、自分とは別の属性の人間のことをよく知ることが必須です。自分と正反対の意見の者も当然いることでしょう。そして、声を上げにくい立場の者、少数派、社会的弱者……これらの属性を持つ政治家(候補者)は少数であり、あまり目立たないのではないかと思います。そのような人々の心情にどうやって寄り添うか。それは、自らの体験を元にするだけでは到底不可能です。しかし、立場が違う人の意見に謙虚に耳を傾けて想像力を働かせれば、自分の持ちえない属性を持つ人のことであっても幾分は理解して、そのような人々が望む政治を行えるようになると思います。これこそが、政治家としての重要な才能であると思うのです。

    クオータ制の根底にあるのは、これとは逆の発想です。ある属性を持っている者は、その属性に関する問題についてより良く考えることができる、というのがこの考えの元となっています。属性によっては、政治家としての能力よりも生来の要素がその分重視されると捉えることも可能です。そして、属性によって議席を取得するのに有利な条件が得られるのであれば、その先にあるのは当事者である議員にとっては属性による権利維持のための条件の強化でしょう(本章のP217に時限立法で防ぐ提案がありますが、期限を延ばす可能性を否定できません)。

    また、支持者にとっても似たようなことが起こり得ます。というのも、ある属性の選挙民にとって、制度によって優越的に自分と同じ属性の者が一定数の議席を得られたとしても、それで満足するとは思えないからです。一般論として、生きていく上でより苦痛を減らし、より幸福な生活を追い求めるのが人間である以上、属性を抜きにしても我々が政治に満足して何の要求もしないようになるとは思えません。自分と同じ属性の議員がその属性故に優越的に議席が得られたのであれば、それによる政治的成果に関わらず、その制度を自分の要求を満たす重要な要素と捉えてより一層自分と同じ属性に対する優越的な権利を要求することが予想されます。

    結果として、当事者の議員もその支持者も属性によって優越的に議席に対する権利が得られたのなら、なおのこと自分の属性と、制度によってもたらされた議席に関する権利にこだわるようになってもおかしくないと思います。

    そしてその分、政治家にとっては、自分の属性とは異なる他者、自分では持ちえない属性の者に対する想像力を涵養(かんよう)する意義が失われ、自分の属性の枠を超えた政治が出来なくなってくる気がします。これは選挙民についてもいえることで、ある属性の人にとって「自分と同じ属性の候補者は自分と同じ属性の人に対していい政治をしてくれると思うこと」の隣には、「『自分と異なる属性の者でも自分にとっていい政治をしてくれること』が期待できなくなること」があるといえます。更に言うなら、議席に対して属性による優越的な権利を与えることが、政治家にとっても、選挙民にとっても「同じ属性の人しか政治的にあてにならない」「つまり人間は、所詮他者を想像できない、他者を思いやることができない」ことを意味する強いメッセージ性を帯びていると思います。これは多種多様の人々が暮らす世の中にはマイナスのイメージしかもたらさないのではないでしょうか。私は、他者への想像力があてにならないことを強く主張することで、他者への想像力を育てる契機を、そして気力を失われ、その結果社会が枯れていくような気がしてなりません。

    また、属性によって優越的に議席に対する権利を与えることは議席を取得した結果の平等を重視したともいえるわけで、それによってそこで評価が定まり、議席を取得した以降の議論の検証がおろそかになる風潮が生じかねないことや、権利がある分(あるいは、議席配分の結果が定められている分)、その権利を得た属性内での競争が薄まり政治(家)の質の低下が生じないか危惧しています。以前、国政選挙が中選挙区制だった頃は、選挙区内である程度の票を獲得できれば二位、三位ぐらいに入れて議員のみならず党としても議席が安定できたので、今ほど党の間で競争が感じられず政治の停滞感が強かったのを覚えています。

    更に言うなら、ある属性の者について、議席の取得に加担する必要性を感じるぐらい危機的な状況を抱えているのなら、それについてはその属性以外の者も含めて国民全体で考えなければならない問題だと思うのですが、そのような制度が出来た途端に「その属性の者に対する問題はその制度によって議席が得られた議員が考えればよく、自分たちとは関係ない」とその属性以外の者から問題意識が失せてしまう展開も心情として十分考えられます。制度によって得た議席が、それによって恩恵を受けることがない者からは、それが精神的に隔離された存在になる、そんなイメージです。

    また、制度を設けるぐらい特別扱いされたのなら、それが今まで社会的弱者であっても議席を得やすいという点では社会的強者に近づいた、と捉えられても不思議ではありません。そして、贔屓されなかったと感じた者が優遇された者に対して同情心より反発心が生じたり、敵対的な感情を抱いたとしてもそれほど不自然ではないと思います。これは主観による感情的な判断なので、このような制度を推進する側の「今まで不平等だったのを埋め合わせて理不尽を無くすための(他に手段がないからやむを得ない)仕組みだ」という理屈はおそらく無意味でしょう。その結果、今まで以上に心理的な分断を招くことになるかもしれません。

    ただ、この問題が持ち上がってきた根本原因として、現在の日本は女性にとって男性よりも住みよい社会じゃないじゃないか、という点があるのは否定できないはずです。

    それならどうすればいいか。議席の話になるぐらい不利な状況におかれているのなら、どのような問題がどれぐらいあるのか、徹底的にかつ具体的に数値化してもらいたい。その上で可能なら解決策を、どうすればいいのかを示してほしいものです。もしそのような論文や資料の類があったとしても、現時点では社会に、国民の間に基礎的知識として広まっているとは言えず、そしてその認識がほとんどないまま議席の優越性や制度の話になるのはあまりにも短絡的です。行政によってでしか解決できないような困りごとがあるなら、現状をわかりやすく、受け入れやすいように伝えること、そして広く届けることにもっと重点を置いてみるべきだと感じています。女性に限らず他の日本社会が住みづらいと思う属性の人々についても、数値を交えた具体的な説明こそが重要であり、第一歩であると信じています。

    先に申しました通り、私は、特定の属性に加担するように議席の配分に関する制度に手を加えて議席へ反映させることには反対です。敢えて、日本が抱える様々な問題点について、その問題の解決に適した者に特に議席の便宜を図る仮定を考えるなら、外交問題(防衛・国家安全保障を含む)や少子化問題、財政問題など他にも国会で討議を要する事項と比較する上でも、今困っていることや問題のある状況の数値化は必要です(当然、外交や少子化などの問題もことの重大性や喫緊の課題であるのか、などを具体的に数値を挙げて説明する必要があります)。今の日本には、より重大な問題があるのを差し置いて他の問題を重点的に議論したり、議席に特別の処置などをする余裕はないはずです。

    そして、この政治上の問題を解決しやすくするためには、先に述べたように属性の異なる者のことを考えられるかどうかを考慮して、政治に秀でた者を順に選び出すことが最大の要だと思います。そのために二つの方向からの手段が考えられます。

    一つ目は議員の方向からの見直しです。私は、国政選挙については問題が多彩であることに対して各選挙区での立候補者数が少ないため、選択肢がかなり限られているように感じています。もっとより多くの、政治を志すものが立候補できるようにするにはどうすればよいか。まず供託金の引き下げです。現状は総務省によると衆参で300万円か600万円であり(衆議院参議院)、これは政治に志(こころざし)があって十分な蓄えがない者を躊躇させるには十分な額です。ただ、もっと重要な視点があるように思えます。

    親をはじめとして、祖父やその他の親戚に議員がいる二世議員が多くないか。あるいは、芸能人から議員になった者が多くないか。そこにいわゆる「地盤(後援会など)」「看板(知名度)」「カバン(資金)」の要素が横たわっているのは確かでしょう。芸能人なら地盤・看板はテレビに出演できる程度ならカバーできそうであり、それに加えて職業柄話芸に長けていたり、あるいは支持政策が同じ議員の元に応援に駆け付けたり、パーティーに呼ばれたりして政治家に接する機会が多いというのも一因としてありそうです。

    もっとも、政策秘書や地方議員や官僚など政治に関した職業に就いていなくても、専門領域に通じている人ならその専門領域の範囲においては早いうちから議員としても活躍する可能性はあるものの、逆に一流の政治家が即座に一流の芸能人になれるか、を想像すれば、芸能人が議席に就くのはかなり効率の悪さを感じます。

    そして、何よりもこの点で根底にあるのは政治家という仕事が具体的にはどのような「作業」をしているのか分かりづらい、想像できないことに尽きると思います。政策立案や適切な予算を振り分けるのにどのような勉強をして身に付ければいいのか。より良い政治を行うための知識をどこでどのように学習すればいいのか。各委員会や議場でどのように振る舞えばいいのか。空いている時間に何をすべきか。それらとは別に、立候補の時点で政策論とは無関係の選挙運動の手腕も問われます。身近なところに議員がいる人はその分それらのイメージができるが故に、そうでない人よりも精神的な抵抗が低いので相対的に有利である、といえそうです(これは政治家のみならず親が他の職業のときもあてはまりそうです)。この差を埋めるためには、立候補や選挙運動から議会答弁にいたるまでの、分かりやすいマニュアルを生み出せるか、そしてそれをいかに広報して周知できるか、にかかっていると思います。

    これに関連していうなら、学校で「政治の役割」だけでなく「議事をどのように進めるか」、つまり議事の手法、議論の進め方を教えるのはどうだろう、とも思いました。これはディベートのように、いかに自説を納得させるか、相手を論駁(ろんばく)するか、ともまた別の話です(これはこれで重要ですが)。現在、学校で政治に関してどのような教育が行われているかわからずに書いていますが、時折あった学級会などでは基本その辺はほったらかしだった記憶があるので、実際の政治の場に繋がるような議事進行や生産性のある意見の合意の手段、手法などある程度定式化して教えることで、政治に限らず話し合いの場での意見形成の質が向上するとともに、若い世代が自分たちの世代よりは政治への参入に意欲的になってくれればと思う次第です。

    そして二つ目は選挙民の方向からの見直しです。良き選挙民とは何か。私は、選挙のときに国会会議録検索システムで有力な候補者が委員会や議院でどんな発言をしたか、逐一調べるのが良き選挙民だと考えています。「どんな属性の人であるか」とか「どんな公約を述べたか」よりも「政治の場でどんな発言をしたか、何を行ったか、どんな成果を上げたか」などの過去の行動履歴のほうが次の活動の指標として適切なのは言うまでもありません。そして、それは難しいことです。かく言う私も前回(2022年)の参議院選挙のときは各候補者について上記のような検証を行えませんでした。事情があり、忙しかったからです。労働者なら、大抵忙しいと思います。平日は平日で明日の仕事に備えるための息抜きをしたく、休日は休日で来週の仕事に備えるための息抜きをしたいのが人情なのではないでしょうか。私は今独身ですが、家庭を持っていて、特に子育てに携わっているのならもうそれに精一杯で政治までにはなかなか手が回らないと思います。政治家の過去の発言や行動を調べるなんて、仕事と大して変わらないのですから。

    しかし、一つ目の議員の方向からの見直しによって国政選挙の立候補に関する環境が改善され、今より議員も多種多様になったら、目新しさにうかつに飛びつかないためにも立候補者の過去の調査によって、政治家としての才能を見極めることが重要になってくるでしょう。過去の調査の重要性は、議員のみならず、官僚が政治家に立候補する場合にもあてはまります。まず、他の職業では比較にならないほど政治に携わっていることを選挙民が実感しているか。その上で、その立候補者がどのような案件、事案に携わりどのような言動をしたか、その結果を受け入れられるか否か。結局、結論としては、いい世の中をつくるためには選挙民もまた政治のために手を動かさなくてはならない、ということに収まりそうです。

    そして、政治の場での議席については、どの属性に対しても制度面で加担せず、どの属性の者でも議席を得られる条件を平等にすることが重要であり、その条件下で議員が国政に秀でた順に選挙民の良識によって選ばれることに民主主義としての意義があることを改めてここに書き記しておきます。
     
     
     
    と、ここまでが私の、クオータ制などにまつわる属性と政治の話の一通りです。以下はようやく、「問いかける法哲学」の「第III部 法と国家 12 女性議席を設けるべきか?」の感想とそれに付随して考えたことです。敢えてもう少し語るために、少しだけ執筆者の主張に乗ることにします。

    以下、引用部の”「 “と” 」”はそれぞれ”『 “と” 』”に置き換えました。なお、元の文章に”『 “と” 』”は使用されていません。
     
     
     
    まず、たとえクオータ制のような女性を含む特定の属性に対して議席を優越的に得られる権利を与えることで全国民が何らかの恩恵を確実に得られる効果があったとしても、そのような制度には反対であることを明言しておきます。理由は上に書いた通りで、それを敢えて一言で言い表すなら「他者への想像力の喪失」が、社会を営む上ではるかに大きな精神的損害になると思われるからです。このような権利を与える制度の確定、固定化こそが、他者への想像力を喪失するきっかけになり得る、というのが私の考えです。

    さて、本章に即して語るなら、まずP203で「(略)相当数の国でクォータ制が実施され,(以下略)」ていることが語られていますが、いずれもその結果国民生活がどうなったか、が良い面も悪い面も述べられていないのですよね。クオータ制が一種の政策である以上、それが本当にそれらの国々の人々に幸福をもたらしたのか、クオータ制に対する支持率、満足度はどうなのか、他国を引き合いに出すならそこまで考慮するべきではないでしょうか。

    P204~205の文章「(略)議員数に男女で大きな不均衡がある場合も同様に,議会の決定は『われわれが民主的に決めた』ものとはいえず,議会の正統性が損なわれているとの趣旨だと解釈できる。」については、その本意がつながるのがページが離れているP206の「民主制の下で議会が正統性を有するためには被選挙権の平等な保障が必要だが,(以下略)」であるため、相当分かりづらくなってます。現状は「独裁者の指名した議員からなる議会」(P204)ではないので、そのまま読むと文意がわからないはずです。更にこのP206には「(略)女性が男性よりも議員になりにくい状況が本当に●●●存在しないのであれば,議員数に男女で不均衡があっても議会の正統性は損なわれないとの主張を受け容れている。」という記述もあるので、もう少し上手くまとめられないものか、とも思いました。

    P205で「重大な文化的障害」の根本(こんぽん)が結局何なのか、誰が障害となっているのか(例・肉親?)、そしてどのように解決するべきか、を具体的に一切語っていないのは、クオータ制の導入に結び付けたいがために、議論をかなり端折っている印象がします。

    P206についてはいくつか述べておきたいことがあります。まず、「過去の法制度が創り出したものの残滓」も先のP205の例と同様に、それが結局は何なのか、従来からどのように「そうした障害の除去」が進められてきたのか、それが適切であったのかどうかが検証されたのか、について一切説明していないので、そこで「(略)女性議員の存在は障害除去に有効だろう。」と言われてもどうにも説得力を感じませんでした。障害除去について有効なのは女性議員ではなく主観的にしろ客観的にしろ障害に対して有効な意見であり、それは女性議員であるかどうかは関係なく、各議員の問題解決能力や説得力に拠るのではないでしょうか。

    その次の「また,女性の過少代表それ自体が女性に対する障害にもなっているため,女性議員の増加はロール・モデルとしても機能するだろう。」というのも苦手な考えです。理由は前述したとおり、それによって起こり得る「他者への想像力の喪失」による精神的損害のほうが女性議員の増加による国益よりも大きいと思われるからです。そもそも、女性の過少代表それ自体が女性に対する障害になっているか、そして女性議員の増加がその障害を解消するだけの効果があるのか、いずれも根拠が示されていないので、本当にそうなのか疑問です。また、一つ下の段落で「クォータ制を擁護するのに,女性議員の増加それ自体を目的と見なす必要はない。」と述べるぐらいなら、ロール・モデルとしての機能を強く取り上げる必要性はないと感じました。

    また、「すなわち,女性は家庭生活を犠牲にしなくても,またすべてを完璧にこなすスーパーウーマンでなくても,」についても違和感があって、家事を主にこなす、いわゆる「主夫」を配偶者にすればいいのであって、それが考えられないぐらい可能性が低いこととは思えないのですがどうでしょうか。

    それにしても、なぜ日本では女性の議員が少ないのか、についてはクオータ制を持ち出す前に考察が詳細に記されるべきではないかと思いました。人材活用の面から問題なのはこの記事の初めのほうで述べた通りです。女性の立候補の志願者が少ないからか、女性の志願者がいても政党が推薦しないからか、あるいは二世など、議員が血縁者にいる者や芸能関係者に目が行きがちだからか。それとも、政党の推薦を受けた女性の立候補者がいても選挙で選ばない有権者の意識の問題なのか。いずれも、議席の制度について語る前にこの国の問題点として踏まえておくべきことだと考えています。

    そして先ほども取り上げた「民主制の下で議会が正統性を有するためには被選挙権の平等な保障が必要だが,(以下略)」の箇所ですが、それを言うなら先に挙げた供託金によって金銭的に余裕のない者が立候補を躊躇する状況も十分に考慮されなければならないと思います。むしろ現状は「投票の権利が平等に担保されている点では議会に正統性があるが、少数派の意見が反映されづらく一部の国民にとってはいい社会とはいえない、という面では問題を抱えている。」と考えたほうが適切だと思います。良い面も悪い面もあるのが民主制です。この箇所は、良い面しかない民主制しか民主制とは認めない、という思想の現れだと理解しています。

    議会の正統性に焦点を当てるならば、クオータ制で議席配分に手を加えた分民意が反映されなくなり正統性を失いかねない、という点に触れるべきだと思いました。また、女性に関する問題の程度を数値化できないのであれば圧倒的な肯定も否定も困難ですが、ただ、敢えて「重要な問題が生じているなら、制度を変えてでもその解決に向いた者に議席を配分するべき」という考えを採用するなら、具体的に数値化して問題を語れないのであれば議席増加による効果は不明瞭であり、また制度の影響の分は民意が議席に反映されない欠点だけが残るので議席に関する制度変更には反対ではある、とは言えます。

    P207~211の「4――女性の過少代表と議会の判断の歪み」について。本章のこの辺りは全般的に国政における女性の利益の重要性を過大に評価している箇所だと感じています。まず、P207の「女性議員が少ないために,議会に『女性の利益や意思』に関する情報,すなわち『女性の声』が届きにくく,」とP209の「しかし,国民が議員を選ぶ際は,性差の見られる問題だけではなく,それ以外の様々な問題も含めた候補者の態度や立場を判断材料にするだろう。その結果として,女性の利益をあまり重視しない議員が多数選出されてしまうことは十分に考えられるのである。」については、くどいようですが、それが他に比べてどれほど(本当に)問題なのか、まずそれを数値化して示すのが先決であり、それができないのであれば、他の問題に比べて重要度が低いから女性の利益をあまり重視しない議員が多数選出される、と解釈される可能性を捨てきれないことを心に留(と)めておくべきです。先に述べたように、外交、少子化問題、財政など議論すべき問題は多岐にわたるので、他に重大な問題があればそちらに重点が置かれるのは当然である、という点からも、女性問題を取り上げるにあたっての詳細な説明がほしいところです。

    P210の「選挙人が女性のみの選挙区(いわば『女性選挙区』)」の発想は、それこそ女性に過大な特権を与えるようなもので、これがどれだけ危ういかは「女性」を「特定の産業の業界団体」に置き換えて想像すればわかると思います。これこそが、一部の権利を拡大することで民意を歪めて議席に反映させる例ではないでしょうか。

    また、P209の「あくまで傾向として,女性議員は男性議員よりも女性の声を多く議会に届けるだろうし,女性の利益をもっと重視するだろうというだけのことである。」については、傾向というその程度の理由で議席に関する制度に手を加えるのはありえないと思いました。数値化しなければいくらでも「問題だと思わせる」ことができるからで、それにうなずくことこそが人々を政治について考えることから遠ざける気がしてなりません。ここは属性で思考停止するのではなく、各議員、各立候補者の言動を選挙民が手を動かして調べ、検証するしかない、というのが民主主義社会において呼びかけるべき態度だと思いました。

    なお、ある属性に加担する形で議席に関する制度に手を加えたのなら、それに対する利点だけではなく欠点(有力議員が落選した、その属性に関する議題以外の議論の質が低下した、など)も十分に考慮しなければならないと考えてます。P210の「(略)クォータ制によってその増加が目指される女性議員も,国民全体の利益を度外視して女性の利益を求めるのではなく,『従来軽視されてきた女性の利益をもっと重視することが,国民すべての利益を公平に考慮したことになる』と考える議員のことだと理解するのである。」と考えるのはあまりにも楽観的な見方で、属性を根拠に選ばれた以上はその属性が有利になる政策を推し進めることが議員本人にとっても支持を集める上で合理的なので、そのため過剰に利益を求めても不思議ではありません。どのような団体や特定の思想を持った集団であれ、その意を受けて当選した議員に対しては、その議員が支持者にもたらす利益が国民全体の利益を侵すような政策行動をしないか危惧するべきなのです。

    P211の「すなわち,議会はすべての国民の利益や意思を公平に考慮しなければならないが,男女の間で,様々な問題への態度や立場に傾向としての差が存在しており,それらの問題に関する女性の利益や意思が,女性議員の少ない議会では公平に考慮されず,」は一見もっともそうで実は一呼吸おいて考えなければならないところです。各議会について本当に公平に考慮されていない問題があるのか、考慮されていないとしたらそれはどの程度なのか。そして、公平に考慮されてなかった「結果」は女性議員の多寡と本当に関係があるのか。いずれも各議会についての綿密な検証が必要なので、この文章だけで決めつけるのは危険だと感じました。私は、この箇所に限らず本章に頻出する「公平」という言葉については、問題の大小に対して相応の適切な対処を行うことだと認識しています。

    P211~215の「5――ポジティブ・アクションとしてのクォータ制」について。P211~212に「(略)現状では,(a)女性が議員になることに対する障害が存在し,かつ/または,(b)『すべての国民の利益を議会が公平に考慮すべし』との理念が継続的に裏切られており,(以下略)」との提示があり、それを受けてP212で「そして,性別役割意識が希薄化すれば,それにともない,様々な社会学的性差も縮小していくと予想されるから,(a)(b)いずれの観点からであれ,クォータ制が擁護されるときは,少なくとも結果として社会学的性差も縮小すると見込まれていることになる。」とあるのですが、物足りなさを感じた箇所でした。

    まず(a)の観点からは、「(女性が議員になることへの障害は性別役割意識に支えられているのだから)」(P212)とあるのですが、仮にそうだとしたら(これに対する私自身の見解は先の「一つ目は議員の方向からの見直しです。」から始まる段落以降に記述しました)、議席に関する制度に手を加えて女性議員が増えた場合は性別役割意識(それが世間一般ではなく議員に対する限定のものであっても)が残存したままであり、そして制度によって議席を得た以上は「制度がないと同等の立場にならない」と解釈されかねず、ある属性に加担する制度の存在そのものが性別役割意識の根拠となり得るので、性別役割意識を無くす方向に顕著な影響を及ぼすとは考えられません。

    そして(b)の観点については、「ただし,性別役割意識が希薄化せず,そのために女性議員の適任者が確保できなければ,(b)の是正も成し遂げられないから,そのかぎりで性別役割意識の希薄化も必要となるだろう。」(P212)と記載されているのですが、女性議員の適任者の確保はむしろ(a)の観点の話であり、また性別役割意識の希薄化の必要性は語っていてもクオータ制の擁護がその希薄化ににどう作用するのかは説明されていませんでした。

    結局(a)(b)いずれの観点からもクオータ制の擁護と社会学的性差の縮小の因果関係について目ぼしい根拠は無く、それどころか次頁、P213には「さらに,性差が存在するとき,それに応じた役割分担を想定するのは容易だから13),クォータ制は結局,性別役割意識も強化するだろう。」とあるので(念のためP217の13)も挙げておくと「13) 性別役割意識の存在は社会学的性差の生まれる大きな原因の1つだが,社会学的性差の認識が性別役割意識を支える面もあり,両者は相互依存的だと考えられる。」)、先の箇所はどのような論理でクオータ制の擁護が社会学的性差の縮小につながるように見込んだのか、もう少し詳細な説明を要するところだ思います。

    P213について。まず「そして,われわれが人の性別を認識するとき,たいていの場合,厳密な生物学的意味での性別ではなく,社会学的性差や傾向としての性差を念頭に置いているのだから,クォータ制は性差の認識も強化するだろう。」とあるのですが、ここで述べられているほど念頭に置いているか、意識しているかというとここまで言い切るのは違和感があります。ここでの性別と性差のどちらを意識するかは状況によりにけりなのではないでしょうか。また、「厳密な生物学的意味での性別」を念頭に置いた場合でも、クオータ制が性別の認識を強化する可能性を否定できない気がします。

    そして、「クォータ制の実施により性別の区分が新たに用いられても,従来性別の区分が用いられていた他の多くの場面でその使用が行われなくなれば,われわれが人の性別を認識する場面は全体として減少し,性別役割意識も希薄化することが期待できるのである。」の箇所も「その使用が行われなく」なる根拠が示されていないので、都合のいい将来の話をしているだけとしか思えませんでした。

    P214について。「しかし,女性の過少代表の問題に関するかぎり,ポジティブ・アクションの実施は適切である。(略)日本で女性にも参政権が認められてから約70年が経過しているにもかかわらず,いずれについてもなお是正が果たされていないのである。病状は重く,『自然治癒力』は弱いと判断せざるをえない。今後もこのままでいては,いつになれば治癒するのか,見通すことなどできないのである。」とあるのですが、女性の過少代表の問題が是正されていないからクオータ制の導入を提案する、というのはあまりにも性急な議論だと感じました。まず、女性の過少代表の原因は何なのか、そして、今までとられてきた対策をその評価とともに説明するべきです。それによって、クオータ制に頼らずともより良い解決策が見つかるかもしれません。それらを語ることなくクオータ制の話をするのは、そのより良い解決策の可能性を否定してクオータ制の導入に誘導しているように思います。この問題についての私なりの対策は、既に「そして、この政治上の問題を解決しやすくするためには、」の段落以降で述べた通りです。

    それにしても、同頁、P214では「(略)クォータ制が効果を発揮するには,社会における性別の区分の使用を減らしていく必要がある。」と書いてあり、そこまでしないと効果を発揮しないのなら現状で導入する意味はほとんど無いようにも思えてきます。

    P215~216の「6――おわりに」について。P215で「争いうる点である。」「異論の余地がある。」「議論がある。」「異論の余地のある論点が多数にのぼるため,」と述べられた各文章の事項に対して「(略)いずれの立場においても決定的な議論を組み立てるのは困難であり,論争はクォータ制の是非ではなく適否の争いにならざるをえないだろう。」と書かれているのですが、突き詰めて論じてみないと文章から読者が受け取る(と思われる)印象のように同等の意見が並んでいるのか、それとも実は白黒つけられる事柄なのかが不明なので、現段階ではそれすら断定するべきではないと思いました。だから、「是非ではなく適否」とあるのは疑わしく思っています。私はこの箇所については「是非」は「全肯定か全否定か」、「適否」は「どの程度適しているか、そうでないか」と捉えているのですが、論じた結果「非」(全否定)となる可能性を排除できないからです。よって、その次の「そして,最終的な結論を導くには,いかなるクォータ制を導入するのかを明確にしたうえで社会の具体的な状況に即して検討しなければならない。」にしても同様に、全否定される可能性があるにも関わらず、あたかもクオータ制の導入を前提とした論調で話を進めていることに相当に危ういものを感じています。

    P216の「性別役割意識と現実の性別役割分担が多かれ少なかれ残っている状況で形成された議員個人の能力は,その影響を完全に脱することはできず,その結果,『女性の利益は女性が代表する』必要が出てくる。」も論の進め方としては強引で、前頁、P215で「(それゆえ合議体が必要となる)」と述べていて、現状その合議体で議会を形成している以上は議員「個人」にこだわって論ずるのは無理があり、また「その影響を完全に脱」しているかいないかは過去の議員の言動を個別に調べるしかなく、それ無くして議員の能力を十把一絡げに決めつけるのはあまりにも議員全体の能力を低く考えているとしか思えないので全く同意できませんでした。このように能力が形成された状況でその議員の能力を決めつけることこそが偏見なのではないでしょうか。

    ただ、社会的に不利な立場の人に目の届かない議員がいないとも限らない以上は、そのような議員にいかに社会的弱者に目を向けてもらうか、を考える必要があります。また、これは選挙民にもいえることで、選挙のときに問題解決力とともに、どれだけ他者に対する想像力や共感力に秀でた議員を選べるか、か問われているとも言えます。いずれも有権者が議員とできるだけ密接にコミュニケーションをとれるかが決め手です。結局は先に述べた通り選挙民がどれだけ政治に手間暇をかけられるか、ということになりそうですが、それでも議席に関する制度変更による解決よりも、他者に対する想像力や共感力を意識すること、そしてその重要性を日々呼びかけることのほうが、はるかに民主代表制の社会のあり方として健全な姿だとこの記事を書いてつくづく感じ入った次第です。(了)


     
     
    【宣伝です】趣味で作曲した作品の動画などをYoutubeで公開してます。チャンネル登録していただけたらありがたいです。ニコニコ動画もどうぞ。ピアプロでは先の2サイトでは公開していない曲が聴けます。

    今回はこの曲をどうぞ。


    「スタンバイのテーマ」インストゥルメンタルです。

     

     

    そんな私の好きな本。最初のほうにあるのが現時点での超おすすめブックスです。「明治・父・アメリカ」は星新一の小説です。

    ゾウの時間…は「ゾウの時間 ネズミの時間 ―サイズの生物学」です。

    天才数学者たち(略)は「天才数学者たちが挑んだ最大の難問―フェルマーの最終定理が解けるまで」です。「代替医療解剖」までの18冊が超おすすめです。

    先に紹介した他に、子供(小学校中~高学年程度)のうちにに読ませたい小説を三冊はさんでおきます。もちろん、大人にとっても十分読み応えのあるおすすめの本です。

    現時点で、その次に読んでおきたい本がこちらです。

    意外なことを決めつけるような記述に対して「本当かな?」と立ち止まる心を忘れないのなら(本当は、どんな本を読むにしてもわきまえておきたいことなのですが)、お勧めの本です。

    意外に軽い気分で読める本も紹介します。なかなか面白かったです。

    こちらも軽い気分で読める本です。面白かったです。

    その後の本も気が向いたら是非ご一読を!

    ・神話
    「図説 地図とあらすじでわかる!…」は風土記の本です。誤植には目をつむって欲しい……

    ・歴史
    この一冊で「戦国武将」(略)は「この一冊で『戦国武将』101人がわかる!―――戦国時代を読むものしり辞典」です。

    物語…は「物語 北欧の歴史」です。

    ・文化史・民俗史・宗教史

    ・政治

    ・外交

    ・憲法・法律

    ・人文・思想

    ・社会・経済

    ・自然科学

    ・芸術

    ・文学作品・小説など

    ・よりよい生活のために

    ここから音楽本特集です。ミュージック・マガジン…は「ミュージック・マガジン 11月増刊号 NU SENSATIONS 日本のオルタナティヴ・ロック 1978-1998」です。

    BAND…は吉田豪がバンドブームの時代のミュージシャンにインタビューした本「バンドライフ」です。その向かって右隣りの本も同じようなインタビュー本です。

    ここからは音楽を考えるための本を集めてみました。「創られた『日本の心』神話」は演歌について徹底的に調べ上げ、その実態を検討した本です。

    最後に、読んで面白かった漫画です。ちょっとマイナー志向?


  • 問いかける法哲学(瀧川裕英 編)私のツイートまとめ

    先日「第I部 自由 05 チンパンジーは監禁されない権利を持つか? 」についての記事を書いた、「問いかける法哲学」(瀧川裕英 編、法律文化社、2016年初版)についてツイートした分のまとめです。

    ▼▼▼
    2022年5月8日
    今、「問いかける法哲学」(瀧川裕英編、法律文化社 初版2016年)という本を読み始めたところです。これがなかなか面白いので、私の感想、雑感を続けてツイートしてみます。
    https://kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784589037886 #法哲学 #読書

    第I部 自由 01 ドーピングは禁止すべきか?
    (注:禁止する主体は「国家」)

    P9からのマイケル・サンデルの議論。美徳を支える所与を定義できるか。筋肉を増量するホルモンと、例えば成長期にカルシウムやタンパク質が豊富な食材を沢山摂るのと区別できるか疑問に思いました。

    また、ゴルファーの話を元にした目的の話も出て来ましたが、目的も美徳も所詮個人の価値観であり、ドーピングを禁止すべきという価値観の人が多ければそういう法律をつくり、そうでない価値観の人が多ければそういう法律はできない、そういうものだと思って読み進めたら……

    中立性原理の話が出てきて、サンデルのいう目的や美徳は必ずしも自明ではない、という指摘があって、ある意味考慮されてました。

    P14あたりを読んで、多様性(文脈の豊かさ)を保つための国家の文化の保護や加担は、今、それらの需要が無くても将来の国民の可能性のために有りにしないか、と思っていたらその後でドゥオーキンの議論が。同じことを考えたかな、私。

    ただ、その後の議論は中立性議論によって「ドーピング規制による美徳=ドーピング肯定による美徳」となるはずなので、続けるなら「現在のスポーツ実践『以外』の美徳を損なうから、(略)ドーピングを禁止『しない』実践に対して『も』国家が協力し…」と続けないといけないのでは、とも思うのですが。

    その辺の話もP16で触れているものの、どうも消極的に思えます。筆者がドーピング規制に寄っているようなのは、ドーピングを全面的に肯定すると、ドーピングの規制に基づく価値観が隅に追いやられやすいという認識の上での論理なのでしょうか。あるいは筆者の価値観の現れなのか……

    私も副作用で身体を害する行為を大きく押し出すのは躊躇します。しかし、身体を害する覚悟を決めた人間を心情的に止め難い思いもあります。それが、その人にとっての幸福なのでしょうから。

    スポーツを業とする者は特定の薬物を法で禁止する、というアイデアも浮かびましたが、国民平等の原則からそれは考えるべきではないと思いました。例えば、ある種の職に就くことで機密保持などの理由で他の国民よりも表現の自由が制限される、ということがあるにせよ。

    なお、身体に危害を及ぼす副作用を理由としたドーピングの否定をパターナリズム(本人のための制約)の観点から解説して、他にもリスクのある行為(喫煙・飲酒など)を許容しているから整合性を欠く、という言い方をしていて、私も醤油の1リットル一気飲みは危険だけど違法ではないなと思いましたが、

    将来、価値観の話ではなく、財政難から医療保険を元とした医療費の支出を抑えるために(その分、他に予算を回せるので公共の福祉の一環と受け止められる可能性がある)健康によくない方法での摂取が規制されるかもしれないな、とうっすら思いました。

    また書きたいことが出てきたらツイートします。

    2022年5月11日
    第I部 自由 02 自分の臓器を売ることは許されるべきか?

    まだ読んでる途中だけど、筆者の想定とは全然違う(であろう)ことを考えている。もしも臓器売買が許されるのであれば、

    通貨を大量に供給したようなものだから、インフレになるんじゃなかろうか。わからないけど寝ます。#問いかける法哲学

    02 読了。臓器の所有権はあるけど売買は禁止、というのが私の意見です。理由は、希少ではあるが売り手の身体に重大な損失をもたらす上に犯罪を全て未然に防げるわけではないので強要等により個人を破壊する事態が多々ありうるため、売買禁止の社会のほうが総体として被害が少ないと思われるからです。

    2022年5月15日
    第I部 自由 03 犯罪者を薬物で改善してよいか?

    一部を当て字にします。ご理解願います。連ツイです。

    まず、自由刑について受刑者に自刹されたら一定期間自由を剥奪される義務を回避できる、ということを問題提起しているのですが、これはそう重要視することではないのではないかと考えています。

    刑罰の目的として、罪人から何かを剥奪し苦痛を与え、そういう世の中であることを周知することで、苦痛を避ける心理に呼びかけ犯罪を防ごうとする働きがあります。ここで国(裁く側)の責務、そしてできることは罪人から一定の何かを剥奪すること、制限を設けることだけだと考えています。

    本書の例でいうなら、罪人が自刹することで一定の期間以上の自由を剥奪されることになるのだから、一定の期間自由を剥奪する刑の目的は達成されていることになります。

    更に言うなら、刑というのは一般的な感覚に依る基準でしか科せられないことを考慮すべきではないでしょうか。

    自由に行動できないと辛いから自由を奪う。仮に監獄の環境を至福に感じる人がいて裁判で塀の外のほうが辛いと主張しても、一般人の刑を避けるための虚言と判別できないため裁く側は塀の中で服役させることになる。そして、一般的に自由より生命を奪われるほうがもっと辛い。

    自由刑の受刑者の自刹は自身でより過酷な剥奪を己に科した、とも言えます。一般的な感覚では、これは受刑者から剥奪した、制限した何かが受刑者に還った、とは考えないはずです。よって「受刑者自身による己からの何かの剥奪・制限の防止」は裁く側の責任の範囲外である、というのが私の考えです。

    さて本題の犯罪者の薬物改善の話ですが、薬で人格を変える話かと思ったら化学的去勢についてでした。それが治療に接近する、という筆者の見方には同意します。

    本章で触れていない薬物(や手術)で人格を変えることについて考えてみました。

    これも同様に、治療に接近する面もあると思います。

    しかし、技術が確立した場合でも、刑として(あるいは「刑の場で」。これは本書の事実上強制の話と繋げる意味合い)体内の組成を不可逆的に変えることで人格を変えるのは、(続

    むしろ裁く側による人格、精神の破壊ととらえるべきであり、人権の重大な侵害に連なる行為なので賛同できない、というのが今の私の考えです。

    とりあえずここまでです。 #問いかける法哲学

    第I部 自由 04 ダフ屋を規制すべきか #問いかける法哲学

    ええと、まず表1の分類がほとんど活用されていないのはどうしたものかと。というのも、「最も典型的であるB」(P61)に関してしか詳しく語ってないので、他(A~B,E)を否定しきれていないのに物足りなさを感じました。

    筆者曰く、「(略)概念的道具を、本節で網羅的に示してしまった(以下略)」(P68)とのことですが。

    「差別の諸基準の間に優劣はつけられない。」(P65)の箇所は、全てを納得させることは無理でも、あきらめきれる基準が多い方(これは事前にアンケートをとったり、とれなかったっ人の反応を調べることで判別する)を暫定的に採用することで公共の福祉に近づくことはできると思いました。

    それにしてもこの章は、筆者(注・本書は章によって筆者が異なる)の思いが強すぎると感じました。筆者が言うところの「(略)人々は自発的に醵金するようになるに違いない。」(P70)の話を肯定する人がどれだけいるか。そんな理想的な出来事はいくらなんでも起きないでしょう。(醵金:きょきん)

    そしてP71の最後から6行前の「なぜなら、」以降に筆者による「(政府が)法律や命令でダフ屋を規制すべきではない。」理由が書かれているのですが、それこそ筆者が否定している「理論活動を生活実践から切り離し」(P73)ている行為ではないかと思うのです。その理由に実例はあるのか、と。そして(続

    それは興行主や客の不満を解消する「公共の福祉」に対抗する理由としては相当弱いのではないか、と思いながら読んでました。なお、本書は2016年初版の本ですが、2019年にチケット不正転売禁止法 https://bunka.go.jp/seisaku/bunka_gyosei/ticket_resale_ban/index.html
    が施行されていて、上記の不満解消に一役買っているようです。

    ただ、執筆時の時点でも凶器準備集合罪は行為のみならす目的も構成要素に組み込まれていたり、薬物も営利目的のほうが罪が重かったりする https://keiji.home-one.jp/way/crime/yakubutsu.html
    ので、転売目的とそうでない場合(急に行けなくなったとき等)の詳しい議論ができたはずであり、(続
    keiji.home-one.jp
    刑事事件の弁護士なら逮捕・示談に強い法律事務所ホームワン

    (チケット不正転売禁止法制定前の)時期的に、他にも語るべき論点、反復性や収入によるダフ屋の定義や商売の自由の本質(の制限の可否)があったのに、その議論が無かったのは少し残念に思いました。総じてこの章は、焦点を一つに絞った結果、独りよがりな進め方の論になってしまったと感じてます。

    この章の始めのツイートが間違ってました。申し訳ありません。「他(A~B,E)」は正しくは「他(A,C~E)」です……
    引用ツイート

    第I部 自由 04 ダフ屋を規制すべきか #問いかける法哲学

    ええと、まず表1の分類がほとんど活用されていないのはどうしたものかと。というのも、「最も典型的であるB」(P61)に関してしか詳しく語ってないので、他(A~B,E)を否定しきれていないのに物足りなさを感じました。
    このスレッドを表示

    2022年6月5日
    第II部 平等 06 女性専用車両は男性差別か
    (05は後回しにします。)

    うーん、「合理性を問う」ということは、言い換えればこのような件では一貫性のある原理は無くケースバイケースで対処するしかないのかなあ、と思ったのでした。恣意的な判断になれば被害の程度と強制力が比例せず混乱する予感が。

    2022年6月14日
    第I部 自由 05 チンパンジーは監禁されない権利を持つか? #問いかける法哲学

    ようやくブログ書き終わりました。一つだけ書くなら、

    「我々人間はどんな理由や理屈であれ、権利を与えたいものに権利を与える」

    ということだと思います。
    http://momomoto.mond.jp/philosophyofla

    第II部 平等 07 同性間の婚姻を法的に認めるべきか? #問いかける法哲学

    国家が婚姻制度に絡む理由は書かれていたのですが、なぜ国家が一夫一妻制を選んだのか、には触れていなかったのであんまり参考にはなりませんでした。肝心なのはそこなのに。

    第II部 平等 08 相続制度は廃止すべきか? #問いかける法哲学

    正直関心が湧かないテーマ。P144の格差ではなく貧困をなくすべき、という点には同意。以上です。

    第II部 平等 09 児童手当は独身者差別か? #問いかける法哲学

    今、「善に対する正義の優位」を読んでいるけど少々わかりにくい。「個人のよき生に対する人権保障制度の優位」ならわかる。善=個人のよき生、正義=人権保障制度、と言い切れるものなのだろうか。重なる部分もはみ出す部分もありそうだ。

    消すかもしれないメモ
    善=個人のよき生:肉体を主体とした快楽原則?
    正義=人権保障制度:[主義の]思索……思考を主体とした快楽原則?

    どうも本章での「法哲学の業界用語」としての「善(good)」(人生に関わる価値、ある人にとっては合理的な人生計画をうまく遂行すること)がまだしっくりこない。自分のイメージでは、善とは他人に施しを与えることだから。これから3.2(P157)を読むけど、その意味にとらないよう気を付けないとなあ。

    2022年6月15日
    基本善か……(P166 注18) )この範囲も主観で色々変わりそうだ。これからも○○は基本善だ、とかいう主張も出て来るかも。

    2022年6月16日
    3.2は「正義の独立性」というより「人権保障制度の許容性」のほうがしっくりくるなあ。

    3.4の制約性はよくわからない。行動を制約するような社会制度には同意しないから社会制度が成り立たない。同意による社会制度があるのなら、それは優位(3.2、3.5)というより対等だと捉えるべきではないだろうか。

    P166の19)の最後の段落の「社会制度の正しさについて考慮することなく……」の箇所も、その「社会制度」は同意によって成り立っているのだから、「自分の人生」と価値観は同じはず。それが異なるものであり対立するかのように記述されているのは不自然に感じる。

    P159の3.5も変。結果の平等か前提の平等か、みたいな話だが、人々の生き方に異なる影響を与えることが許容されるのなら、社会制度の正当化が特定の夫婦間・家族間に肩入れする事態も考えられるので矛盾が生じる。

    3.5は
    ・影響の中立性の説明
    ・理由の中立性の説明
    ・「以上の説明から明らかなように,」
    と続くが、その「以上の説明」では影響の中立性が許容される可能性を否定しておらず、「理由の~」が「影響の~」より優れている記述も無いのであまりにも唐突に感じた。

    更に言うなら、「(略)社会制度の理由が中立でありささえすれば,その制度を許容される。」(P159)、つまり同意(の可能性)がある、とはこれだけでは判別できないはずで、あたかも結論を「許容される。」と断定されるとどうしても違和感が残る。

    2022年6月19日
    P162 4.2については、まず私は国家の安定が大元にあって、そのために次世代の育成も財政の安定も必要だと考えてます。よって、児童手当の効果が少ない高所得者への支援は不要だと思います。

    P163「(略)子どもを持つ生き方はよい生き方(以下略)」も「(略)児童手当に所得制限を課すべきではない。」も唐突に感じました。前者はそれこそ「次世代の育成は重要」で充分であり、後者は「財政の安定も必要(なので所得制限を課すべき)」のほうがしっくりきます。

    P166 21)いや、結果的には含意しているんですが。その分の課税をしていたら含意していない、と言える。制度の哲学によって制度の結果がが異なれば各世帯の行動もまた別になるので、当然ここは制度の結果も問われるべきでしょう。

    P163 5.1 高齢者の人口も提示せずに歪とか言われても。厳密に政策を考える内容ではないにしても、勢いで語られると用心せざるを得ない。

    P167 22)マル2。子供を産まない、育てない生き方を選んだ夫婦に税が課されない理由は?不妊カップルについても、それがなぜ「独身税のほうが適切」なのか、あまりにも結論が大雑把だ。

    P164 5.3 人生観の押しつけと負担の強要は私も反対ですが、「人間のあるべき姿」まで行かなくても好きな人と結ばれて子供も欲しい、ぐらいの理由でも子どもを産み育てていくものだと思います。この箇所は道徳的な考え方に固執している気がしました。

    P167 23)でも大抵親は他の者よりも子供から愛情なり手助けなりで享受しているはずなので、それは忘れないようにしないと。(軍事や治安維持などを思い浮かべながら)応分の負担が過度でなければ反対しません。

    やっと本章終わった……

    第II部 平等 10 年金は世代間の助け合いであるべきか? #問いかける法哲学
    感想を幾つか。まず、人間の内面を公平に数値化するのは無理で、力のある(=同調者が多い)見解を有する者が優勢になるだけなんじゃないかと思いました。

    「人生全体の満足」と「同時点区間説」も価値観の話で、支持者が多い価値観によってその共同体(国)の再分配の仕組みがつくられるということだと思います。

    私は最低限の生活ができる程度の分配をした上で、同時点区間説のほうに惹かれます。何より今困っている人を助けるのが福祉だと思いますので。

    第III部 法と国家 11 裁判員制度は廃止すべきか? #問いかける法哲学

    法哲学というより、実践にまつわる論点を取り上げているように感じました。これ以上は興味が持てないので書けません。以上です。

    2022年6月26日
    第III部 法と国家 13 悪法に従う義務はあるか? #問いかける法哲学

    12は後回しにします。13は、正義も道徳も法に従うのも従わないのも価値観のなせる業なので、そもそもこれは答えが一つになってまとめられる問題なのか、そこから疑問です。

    それと、「法に従う(遵法義務)」の枠組みに、法改正や法の廃止は定義上どう考えているのか、それをはじめに示したほうがわかりやすく議論が進められる、と思いました。

    P230からの5.1以降は、ちょっとそれは執筆者独自の定義っぽく感じました。「悪法を尊重しつつ是正する義務」は当初の問いからずれてきているのではないか。

    その後については、どんな理由があろうとも違法行為なら遵法義務に反しており、それがこの問題の前提だろう、というのが私の見方です。

    法に納得できないのなら、違法行為を行わなくても広く訴えて法を廃するなり改正するなりの方向にもっていけばいいと思うのですけどね。市民的不服従による違法行為は遵法義務に反していないなんて、贔屓の引き倒しに近いものを感じました。

    あと、P229の法の「整合性 fit」条件は、おそらく既存の法の正当化までは意味していないんだろうけど、実際にはそう捉えられる気がしました。

    第III部 法と国家 14 国家は廃止すべきか?

    あまり気乗りしないテーマ。民間に弱者の世話を任せることができるんだろうか。また、軍事作戦(戦闘)のみならず軍備(普段の備え)、外交といった国家級のビッグプロジェクトが民間だけでなせるのか、そこは疑問というか不安です。

    2022年7月3日
    第III部 法と国家 15 国際社会に法は存在するのか。#問いかける法哲学

    最後の章だけあって難しい。3.1のP258の下段、それなら近代国内社会における法ではない、と言い切っていいと思うのですが。あとP259の「国際法を実定道徳と見なす」の主体はオースティン?わかりづらい。

    P259の「しかし,法の内容は多様であり,」以下の例も命令として解釈できそうだし、慣習は(オースティンいうところの)法ではないだろうから、むしろ執筆者の見方に納得できない。

    P264の議論、多数の国家が遵守しているから正当化されている側面も幾分はあると思うので、内的視点を考慮されてないからといって切り捨てることはできないなあ。

    内的視点を採用すれば納得できる。→わかる。
    (納得の如何に関わらず)内的視点を採用していないから不完全。→わからぬ。

    P264の5以降の議論が苦手だ。国際法の擁護に思えてならない。国際法に対する概観史も、ハートやウォルドロンの心中も興味ない脇道だ。

    P268 やっぱり議論は事実に基づかないとね。同意。

    P269 分類を増やすしかないんじゃないかな。

    P269続き でも、国内法そのものに対する理解を進めるために国際法を法に含めるわけじゃないですよね(確認)。

    6.2以降は、国際社会における法の「考え方(方法)」を示したもので「考え」を示しているわけではない、と解釈しました。

    最後に一つ指摘するなら、P271の「道徳に関わる価値評価」は「道徳を含めた価値評価」のほうが私としてはしっくりきます。以上でこの章終わりです。

    12章書かないとなあ。
    ▼▼▼
    ツイートからの転載は以上です。12章こと「第III部 法と国家 12 女性議席を設けるべきか?」についてはこれから書きます。
     
     
    【宣伝です】趣味で作曲した作品の動画などをYoutubeで公開してます。チャンネル登録していただけたらありがたいです。ニコニコ動画もどうぞ。ピアプロでは先の2サイトでは公開していない曲が聴けます。

    今回はこの曲をどうぞ。


    「魂の和」 歌は、雷歌ヒビキさんと雷鳴カゲロウさんです。
     

     

    最初のほうにあるのが現時点での超おすすめブックスです。「明治・父・アメリカ」は星新一の小説です。

    ゾウの時間…は「ゾウの時間 ネズミの時間 ―サイズの生物学」です。

    天才数学者たち(略)は「天才数学者たちが挑んだ最大の難問―フェルマーの最終定理が解けるまで」です。「代替医療解剖」までの18冊が超おすすめです。

    先に紹介した他に、子供(小学校中~高学年程度)のうちにに読ませたい小説を三冊はさんでおきます。もちろん、大人にとっても十分読み応えのあるおすすめの本です。

    現時点で、その次に読んでおきたい本がこちらです。

    意外なことを決めつけるような記述に対して「本当かな?」と立ち止まる心を忘れないのなら(本当は、どんな本を読むにしてもわきまえておきたいことなのですが)、お勧めの本です。

    意外に軽い気分で読める本も紹介します。なかなか面白かったです。

    こちらも軽い気分で読める本です。面白かったです。

    その後の本も気が向いたら是非ご一読を!

    ・神話
    「図説 地図とあらすじでわかる!…」は風土記の本です。誤植には目をつむって欲しい……

    ・歴史
    この一冊で「戦国武将」(略)は「この一冊で『戦国武将』101人がわかる!―――戦国時代を読むものしり辞典」です。

    物語…は「物語 北欧の歴史」です。

    ・文化史・民俗史・宗教史

    ・政治

    ・外交

    ・憲法・法律

    ・人文・思想

    ・社会・経済

    ・自然科学

    ・芸術

    ・文学作品・小説など

    ・よりよい生活のために

    ここから音楽本特集です。ミュージック・マガジン…は「ミュージック・マガジン 11月増刊号 NU SENSATIONS 日本のオルタナティヴ・ロック 1978-1998」です。

    BAND…は吉田豪がバンドブームの時代のミュージシャンにインタビューした本「バンドライフ」です。その向かって右隣りの本も同じようなインタビュー本です。

    ここからは音楽を考えるための本を集めてみました。「創られた『日本の心』神話」は演歌について徹底的に調べ上げ、その実態を検討した本です。

    最後に、読んで面白かった漫画です。ちょっとマイナー志向?


  • 問いかける法哲学(瀧川裕英 編)第I部 自由 05 チンパンジーは監禁されない権利を持つか? 考察と感想

    ブックオフで中身チラ見して面白そうだったので買ったこの本、初めの01~04については少しずつツイッターでつぶやいていたのですが、表題の05については色々書き連ねていたら長くなったのでこちらに書くことにしました。

    本書「問いかける法哲学」(瀧川裕英 編、法律文化社、2016年初版)の、各章の執筆者は以下の通りです。

    第I部 自由
    01 ドーピングは禁止すべきか? 米村幸太郎
    02 自分の臓器を売ることは許されるべきか? 鈴木慎太郎
    03 犯罪者を薬物で改善してよいか? 若松良樹
    04 ダフ屋を規制すべきか? 登尾章
    05 チンパンジーは監禁されない権利を持つか? 野崎亜紀子

    第II部 平等
    06 女性専用車両は男性差別か? 松尾陽
    07 同性間の婚姻を法的に認めるべきか? 土井崇弘
    08 相続制度は廃止すべきか? 森村進
    09 児童手当は独身者差別か? 瀧川裕英
    10 年金は世代間の助け合いであるべきか? 吉良貴之

    第III部 法と国家
    11 裁判員制度は廃止すべきか? 関良徳
    12 女性議席を設けるべきか? 石山文彦
    13 悪法に従う義務はあるか? 横濱竜也
    14 国家は廃止すべきか? 住吉雅美
    15 国際社会に法は存在するか? 郭舜

    まず「権利」に関する私なりの考察を、次いで本章の感想を書くことにします。

    「権利とは何ぞや」と問われると、とどのつまりそれは「設定」なのではないかと考えています。みんなが幸せになるための、この世界の設定。要はそういうことだと思うのです。

    絶対王政なら王や側近の意見が重んじられたり、また法的な話ではなく商売、経済の話なら人数×経済力なんて式が浮かびます。しかし、民主主義の社会では多数の構成員の価値観が法に反映されます。よって、法によって定められ、また法の礎となる権利の概念についても、ある価値観について支持する人が多ければ多いほど、その価値観の影響を受けやすくなるといえるでしょう。

    (寄り道1)もっとも、経済的に弱い立場にある共同体はその価値観を他から批判された場合、不買運動など商取引への影響を恐れてその共同体に追従するように価値観の変更を迫られるかもしれません。その意味では経済力も価値観に基づく権利に間接的に影響を及ぼす要素になりえます。その意味では、軍事力も同様に価値観に影響を及ぼす事態が生じるかもしれません。結局は共同体の強弱も価値観や権利に関わる要素になりそうです。(寄り道1終わり)

    そして、このことは大多数が何か他のものに重大な価値を見出だし権利を与えるべきだということになったら、理屈はどうであれそれがたとえ椅子のような無機物であっても、そのようなものが権利を得ることを意味します。

    今は、動物などの人間以外のものには人間のような権利はありません。何故か。聞いてみた訳ではないのですが、大多数の人がどう考えているか、おおよその見当はつきます。

    まず、ある属性(本章の言葉の「意識を失い回復の見込みがない遷延性の意識障害者」がわかりやすいのですが、別に劣った属性でなくても同じように考えられます)の人間から権利を剥奪するのであれば、自分が人間である以上は事故とかでその属性を持つかもしれないので、自分の権利が奪われる可能性がある。となると、どんな人間にも権利を与えておく、言い換えれば権利を剥奪しないほうが保身に役立つというわけです。つまり、ある意味保険を掛けている、とも言えます。

    それとは別に、積極的な理由も考えられます。それは、人間を最も幸せにできるのが人間であるということです。確かな質と量の食料を生産して手の届くところまで運んだり、あるいは住まいやガス電気水道を使えるようにしているのは誰(何)か。ケガや病気になったときに、誰(何)が助けてくれるのか。どれも人の手が必要です。よって、自分自身を守るばかりではなく、より良い人生を送るためには他のものより人間に特権を与えたほうがいい。これは、実利を重視した当然の結論です。

    しかし、これらの働きは人間よりも優れた何か(AIロボットとか)に将来とって変わられるかもしれません。それなら、我々人間はその優れた何かに同等の権利を与えるのか……というと、おそらくそうはならないでしょう。そこにもう一つの考えられる理由が浮かびます。我々は誰(何)を愛するか、愛されたいか。大多数の人間が、そこに人間の存在を念頭に置いているはずです。

    つまり、我々人間は愛情、即ち本質的には好き嫌いに近い感情で権利の主体を決めている部分が大きい。ただ、これは逆に考えると、人間が「人間よりも優れた何か」や「椅子」を人間よりも、特に自分自身よりも強く愛するようになったら、それらに権利が与えられてもおかしくはないと私は考えています。

    更に付け加えるなら、何の役にも立たなかったり、むしろ人間に危害を加えるものであっても、上記のような理由で権利を与えるのを皆が良しとするならそれらにも権利が与えらえる。すぐには起きそうにないことですが、この先はもしかしたらそういうこともあるのかもしれない。

    まとめるなら、我々人間はどんな理由や理屈であれ、権利を与えたいものに権利を与える、ということだと思います。現状も、「『我々は、~への権利を認めるべき』という言い方で示されるような、あたかも人類全体を射程に入れた守るべき正義や道徳などの価値観がある」と仮定するよりも、「『は、~への権利を認める』という個々の意見の大多数が反映されている」のが実態なのではないでしょうか。

    そして、権利を与える「みんな」の範囲をどうするか、どこまで広げてどの程度まで権利を認めるか、ということを考えるための材料を提供しているのが本章だと言えます。「種族(人間、人間の社会)」と「能力」のどちらを優先させるか、が最大の対立軸となっています。

    (寄り道2)ここで他の本を一冊紹介します。「脳を司る「脳」 最新研究で見えてきた、驚くべき脳のはたらき」(毛内拡 著、2020年初版、講談社ブルーバックス)はタイトルの通り脳についての本なのですが、実験にネズミを使う際にネズミにどのようなことをしているかが詳細に書かれているだけでなく、今、実験のためにどのように動物に接しているか、それについての読者に対する語り口まで含めて、この問題に関心のある方にはヒントになるところもあるのではないかと思いました。(寄り道2終わり)

    動物については、無益な殺生には嫌悪感を抱くが有益な用途に使う分には躊躇しない、ただ、絶滅が危惧されるような種については手を出さない、と考える人が大多数だと思います。ただし無益や有益の幅の感覚、本章でいうところの「動物の福祉」の考え方や「虐待を含む動物への不当な扱い」については個人や集団の間に差異が生じるので、その幅を可能な限り尊重して折り合いをつけるのが各個人・集団の価値観の保護や精神的満足度、つまり最大多数の最大幸福に繋がると思うのです。

    ここで考えておきたいのが正義や道徳などの根幹となる「善」という概念についてです。他の事柄にも当てはまる場合があると思いますが、本章の問題については、善とは自分の価値観を周りに近づけること(これは、周りを説得してその価値観を自分に近づけることを否定しない)であり、それ以上の意味合いは無いのではないかと考えてます。

    ここで、その過程で自分と周囲との関係に焦点をあててみると、周囲の意識や思考力によって価値観が左右されることは当然あると思います。自分と反対の価値観を持つ者に苦手意識を抱く。あるいは、その者が自分より優れた存在だと思い込んだ時点で思考を止めてしまう。自分の考えを言葉にまとめることに慣れてなかったり、仕事や家事その他でじっくり考える時間がとれなかったりして、声高に強固に主張する個人や集団に引きずられる。自分と逆の意見がマスコミで大きく取り上げられると、自分の考えを広く伝える機会や能力のなさと対比してしまい、特に利害が絡まなかったり、思い入れの少ない対象に関しては深く考えることなくその反対の価値観を新しいルールとして受け入れてしまう。対人関係や、場合によっては収入への悪影響を危惧して意見を発信することに躊躇し、結果として意にそぐわない考えばかりが溢れる……これらはいずれも各要素の強弱の反映にすぎません。自分の意に反した意見を見かけたり、特にそのような意見が蔓延(はびこ)っているように感じたときは、その意見を採用することで本当に社会が良くなるのか、その考えは綿密な調査や思考に裏打ちされていないのではないか、という疑念は心底納得したのでなければ残しておいてほしいものです。

    ここで言いたいことは大体書き終えたのですが、一つ気になる言い回しがあったので紹介します。「種族主義 speciesism」という言葉で、本章では以下の斜体のように紹介されています(あくまでも「紹介」であり、執筆者の主張ではないので注意)。下記の「基準」は創造物として下等か高等かの、ひいては権利を優先させるべきかどうかの基準という意味です。

    (『問いかける法哲学』 P81-82)
      本来、能力の有無を基準にする考え方に基づくならば,答えはそのとおり,彼/彼女らはチンパンジーよりも「下等な創造物」なのであり,したがって彼/彼女らよりもチンパンジーのほうが道徳的配慮は優先されるべきである。もしそれはおかしい,彼/彼女らは仮に能力がないとしてもなお,チンパンジーよりも道徳的に手厚い配慮対象となるべきだ,と主張するのであればそれは能力の有無ではなく,彼/彼女らが,人間だから●●●●●という理由で,道徳的配慮がより手厚くなされるべきだというのであり,チンパンジーは,人間ではない動物だから●●●●●●●●●●●という理由で道徳的配慮の対象とはならない,と考えているからである。それは,かつて人間と奴隷とを分けていたのと同様に,白人と黒人とを分けていたのと同様に,あるいはまた男性と女性とを分けていたのと同様に,人種差別や性差別といった考え方と同根の「種族主義 speciesism」に基づいているのだ。
      以上の見解をふまえて、(以下略)

    普通「差別」という言葉は人間に対してしか使わないので、上記は「人間もチンパンジーも同等である」という見方を示しているのにすぎません。 私は、人間とチンパンジーや他の動物、生物とは同等ではない、という見方です。もちろんこれも正義や道徳といった、こう考える「べき」といった言い方で語られるものではなく、こういう考え方が好みに過ぎないという話ですが、社会について考える上で一つ理屈を付け加えておきます。

    なぜ同等でないのか。種族主義という言葉を使う以上は、まず人間という種、チンパンジーという種、ゴリラ、ネコ、イワシ……という風に、種族ごとに区切りをつけて考えるべきでしょう。そして、人間と人間ではないある種の生物Aは同等の仲間だ、と考える人たちがいたとします。その場合、人間とAとは本当に同等だ、とその人たちが考えることができるのに対して、人間ではない生物Aは、自分たちAという種と人間が同等の仲間だ、と認識できるだけの知性はありません。よって、人間という種は総体として人間(と人間以外の種)を助けることができますが、人間ではないある種の生物の総体がその種以外の種を同等の仲間として助けるようなことは考えられません。我々はより幸福になるべく社会を構築してきて、そしてその社会が存在する上で権利を持っているのです。よって、人間を同等の存在として助けることができず、義務の概念を理解することもない、つまり共に社会を構築することのない種の総体に権利を付与するのは過剰な保護だと感じています。なお、能力的に人間を助けられない人間の総体に対しては、先に述べたように自分もそうなったときの保身・保険の意味合いや人類が人類に対して愛情を抱いている面からも、より良い世の中を作り上げ、各人の幸福を満たすためには同等の権利があるべきだと考えています。

    (かなりの寄り道3)もっとも、将来科学が発達して、人間もチンパンジーやゴリラやネコやイワシになれるかもしれない(それらの動物のような思考しかできなくなった状態。元には戻れるものとする)。ここで、「動物になった元人間」を仲間とみなすか否か、という問題が出てきます。この状況下では、自発的に動物になるのではなく、無理やり動物にさせられることもありえます。これをある種の長期の意識障害と考えるのが妥当か、あるいは元人間の動物に対して人間と同じように心情を寄せるようになるか……動物(生来の動物を含む)と人間との心理的な距離が近くなり、人間に対する扱いと同じようになってくるのではないか、そんな感覚があります。この場合、動物を愛する人にとっては「元人間の動物を生来の動物と同様に扱うか」という問題も生じることでしょう。または、動物の中の元人間の動物の割合によって反応や態度、権利の程度が変わってくる、そんな気もします。そんな状況を利用した、動物を愛するが故に自ら動物になって紛れ込む人も出てきそうです。そして、元に戻る気がない場合(動物になる際にそのように宣言していた場合)は自殺、戻れなくなった場合は事故による死とみなせるか……そんな世の中が来そうなときに考えればいいにせよ、この本章の話題について考えるヒントは色々あると思いました。(かなりの寄り道3終わり)

    最後に、この「チンパンジーに権利を与える」ことについて、少し別の角度から捉えてみたいと思います。人間以外の何かに権利を与えることによって我々の自由度は狭まる、言い換えれば制約、規律が増えることになります。もしかしたら制約や規律を守ることで自分の信じる価値観への帰属意識が高まり満足度が高くなる、制約や規律が増えたり厳しかったりするほど、己を律しそれらを遵守することで自尊心が高まり、ある種の快感(満足度)を得る脳の働きがあるのではないか……そんなことも考えてます。

    そして、そんな自尊心の高い人たちは、その自尊心の反作用的に、それらの制約や規律から無縁で遵守しない人々を見下すような言動をしているのかもしれない。そして、見下された側は悪くもないのにそれだけで心が凹んでしまうものなのかもしれない。ただ、誰かから制約や規律を押し付けられそうになったとき、それに従うか抗うかを決するのは、やはり強いか弱いかだと思うのです。結局は。こう書いていても辛くなるのですが。どこまでやればいいのだろう、と。普段、物事をどれだけ考えているか、考えを上手く表現できるか、信頼を勝ち得ているか、人気があるか……などなど。それが集団ごと、国ごとの話であれば、個人で対処するのは難しいにせよ、経済的にも、もしかしたら軍事的にも弱いよりは強いほうが不利な状況になりにくいのだろう、ぐらいのことはいえると思います。要は自分の好きな価値観を、ある意味そんな世界を守れるか守れないかは日々の努力と成果の帰結であり、守るためにはできるだけ多くのことを考えられるだけ考えて生きていくしかないのだろうな、と身に染みて感じているところです。

    今後も本書を読んで思いついたことを書いていく予定です。ツイッターかブログかはその時次第で決めます。世の中について考えてみることも結構やりがいがあるものなので、当記事が皆様にとっても考えるためのいい切っ掛けになれば有難く思います。
     
     
    【宣伝です】趣味で作曲した作品の動画などをYoutubeで公開してます。チャンネル登録していただけたらありがたいです。ニコニコ動画もどうぞ。ピアプロでは先の2サイトでは公開していない曲が聴けます。

    今回はこの曲をどうぞ。


    「星の夜のたからもの」 歌は、初音ミクさんです。
     

     

    最初のほうにあるのが現時点での超おすすめブックスです。「明治・父・アメリカ」は星新一の小説です。

    ゾウの時間…は「ゾウの時間 ネズミの時間 ―サイズの生物学」です。

    天才数学者たち(略)は「天才数学者たちが挑んだ最大の難問―フェルマーの最終定理が解けるまで」です。「代替医療解剖」までの18冊が超おすすめです。

    先に紹介した他に、子供(小学校中~高学年程度)のうちにに読ませたい小説を三冊はさんでおきます。もちろん、大人にとっても十分読み応えのあるおすすめの本です。

    現時点で、その次に読んでおきたい本がこちらです。

    意外なことを決めつけるような記述に対して「本当かな?」と立ち止まる心を忘れないのなら(本当は、どんな本を読むにしてもわきまえておきたいことなのですが)、お勧めの本です。

    意外に軽い気分で読める本も紹介します。なかなか面白かったです。

    こちらも軽い気分で読める本です。面白かったです。

    その後の本も気が向いたら是非ご一読を!

    ・神話
    「図説 地図とあらすじでわかる!…」は風土記の本です。誤植には目をつむって欲しい……

    ・歴史
    この一冊で「戦国武将」(略)は「この一冊で『戦国武将』101人がわかる!―――戦国時代を読むものしり辞典」です。

    物語…は「物語 北欧の歴史」です。

    ・文化史・民俗史・宗教史

    ・政治

    ・外交

    ・憲法・法律

    ・人文・思想

    ・社会・経済

    ・自然科学

    ・芸術

    ・文学作品・小説など

    ・よりよい生活のために

    ここから音楽本特集です。ミュージック・マガジン…は「ミュージック・マガジン 11月増刊号 NU SENSATIONS 日本のオルタナティヴ・ロック 1978-1998」です。

    BAND…は吉田豪がバンドブームの時代のミュージシャンにインタビューした本「バンドライフ」です。その向かって右隣りの本も同じようなインタビュー本です。

    ここからは音楽を考えるための本を集めてみました。「創られた『日本の心』神話」は演歌について徹底的に調べ上げ、その実態を検討した本です。

    最後に、読んで面白かった漫画です。ちょっとマイナー志向?