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  • 現代絵画入門 二十世紀美術をどう読み解くか(山梨俊夫著・中公新書)感想

    わけのわからない絵が一生暮らすのに不自由しないほどの高額で取引されるわけのわからない世界。そんな芸術、美術の世界が少しはわかるかもしれない、と思い本書を手に取りました。山梨俊夫著「現代絵画入門 二十世紀美術をどう読み解くか」。結果は……わかるようになった、とは言い難いけれどためになったのは確かです。

     
    はじめに二人の画家、ドラクロワとモンドリアンの話が出てきます。ドラクロワ?あれはわけのわからない絵じゃないじゃないか、と思われるかもしれませんが、ドラクロワも意外な評価を受けていて、つまり絵に対する評価の尺度は昔から変わってきていることがわかります。

    そして、絵について様々な考えが生まれ、その考えに基づいた作品が生まれてきます。マレーヴィッチ。この時点で「いいのか?これでいいのか?」といった気分になりました。そして、絵とは何かという問いかけは哲学の存在論に近いものを感じました。本質とか、「馬であることは馬であること、ただそれだけ」(アヴィセンナ(イブン・スィーナー)、井筒俊彦著「意識と本質」P40)とか、そういう議論のことです。

    ブラックがキュビズム以外の方向性の絵も描いていたことも初めて知りました。そして、今読んでいるこの本は美術史というより美術評価史の意味合いが強いのではないか……美術に限らず芸術の歴史とは作品が生み出された歴史とともに、どのような作品が評価されたかの歴史である。今更ながら、そんな気がしてきました。

    シュヴィッタース(メルツ絵画、メルツバウ)。デュシャン(レディ・メイド)。ボイス。ニューマン。それぞれに思索があり、作品がある。あるのですが、それがどれだけ多くの人に美を感じさせることができるのか。思索の説明文があってもかなり困難で、説明文無しなら相当難しいのではないか。読みながら、そう感じてきました。キルヒナー。ゴーガン(ゴーギャン)。ノルデ。ピカソ。ベーコン。ジャコメッティ。キーファー。様々な思索、ネタの羅列……

    モダニズム。そこから、マティス、モンドリアン、ロスコへと話が続いて、モダニズムの話で終わり、ここまでがこの本の射程距離です。

    最後のほうで引用されているイーグルトンの批判については、制約が外れて表現に幅が広がったものの、芸術自らのあり方を対象にすることによって感動の前に理解する必要性が高まった結果人々への訴求力が薄れ孤立した、と言い換えてもいいような気がします。そもそも商品とならなければ本当に芸術として独立できないのか、と雪舟の水墨画を見て思うのです。また、「画家の生存は、作品の流通する市場に左右されることに間違いない。」(P213)と言われても、商売がうまくいったり親の莫大な遺産を受け継いだりして市場に生存を左右されることなく創作活動を行う場合も考えられるので、商品と画家の関係については芸術一般というより個々の処世に関する事柄であるので、あまり論ずる必要性が感じられませんでした。

    あと、この本を読んだのがきっかけで自分なりの芸術に対する考え方をまとめてみました。ご一読していただければ幸いです。

    以下、読んでいてつらつら思った細かいことです。

    ・本書に掲載されているブラックの「ビリヤード台」は1944年作。当時の数学や物理学と何か関連性はないだろうか。非ユークリッド幾何学を思いついたのですが、1830年代(日本では江戸時代……)に成立していたようです。

    ・河原温(1932(1933?)-2014)の「日付絵画」(“Today” Series)にシュヴィッタース(1887-1948)のメルツバウに似たものを感じました。

    ・デュシャンについて語るのに、ティエリー・ド・デューヴ(1944生)の「レディ・メイドの時間」が引用されているか、その中に「反復」「差異」という言葉が出て来る。ドゥルーズの「差異と反復」(1968)と何か関係というか影響を受けたのだろうか。

    ・本書の内容と全く関係がないが、造形を視覚上3次元の芸術、絵画を2次元の芸術とすると1次元の芸術というのも存在するのだろうか。また、その際1次元を厳密に「限りなく細い(当然あらゆる波長(不可視光線の紫外線)より細い)」とすると、色は定義できるのだろうか。思いついたのでメモ。

    ・ジャコメッティの凝視のエピソードから、中国宋代の儒者が本質の探求のために庭前の竹庭を見詰め続けた話を思い出しました(井筒俊彦著「意識と本質」P80)。同書のそのページの少し前の詩人マラルメの話と合わせて、本質的に似た(或いは同じ)行為のような気がします。

    ・キーファー作「リリト」については、情報量を押さえて鑑賞者の想像に委ねるやり方(あるいは、その度合いの大きさ)に詩に似たものを感じました。私は、詩は普通の文章(散文)より言葉を削ってその分読者の想像力に委ね、更にそのことで鑑賞時間当たりの感情変遷の度合いを大きくするタイプの文学だと考えています。
     
     
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    今回は透き通った歌声をどうぞ。


    「水の鏡α」歌はUったんぽいでさんです。
     

     

    今回のアフィリエイトは芸術特集です(ほぼ前回と同じ)。表記より安い中古があるかもしれません。あきらめずクリックを。

    「意識と本質」少し読み返したらまた読み返したくなってきてしまいました。まだ今年買って未読の本がたくさんあるのに。ちょっとヤバいかも。
    P-modelのアルバム「IN A MODEL ROOM」には「美術館で会った人だろ」(ART MANIA)が収録されています。
    PSY・S(サイズ)のアルバム「NON-FICTION」に収録されている「Robot」という曲もこの話題に少し触れているような感じで「わからないけど これきれいだね」という箇所が印象的です。このアルバムには「Parachute Limit(パラシュート・リミット)」「EARTH 〜木の上の方舟〜」「Angel Night〜天使のいる場所〜」といったある時代の人にはピン!とくる曲も入っています。どれも楽しめる曲なので聴いたことのない方は聴いてほしいです。EARTHだけでも!お願い!


  • 芸術の秋なのでわからないけど芸術について語ってみる

    この記事は当初は「現代絵画入門」(山梨俊夫著・中公新書)の感想を交えて書こうと思ったのですが内容を分けたほうがいいと思いこの形になりました。ただ、この本がこの記事を書くきっかけになったことは確かです。

    芸術には興味があります。美術に関しては、私の場合は色々なものを見たい、変わったものを見たいといった動機が大半を占めています。それでも、芸術の秋でもあるので芸術について語ってみることにしました。以前から薄々考えていたことではあるのですが、この際なので自分の意見をまとめてみたくなったからです。
     
     
    ●そもそも、芸術って何?

    ある作品に触れた人に、「きれい」とか「美しい」とか「おおっ!」とか「ああ……」とか「おえあっ!?」とかいろいろな感情を起こさせることが芸術の機能だと思います。言葉を変えて言うなら、その作品に触れるまでは思いもよらなかった感情を抱かせること、あるいはその作品ならではの世界に連れて行くことともいえるでしょう。

    芸術の特徴として踏まえておきたいのは、何によってそれらの強い感情を抱くかは人それぞれであるということです。生き方や体験したことがそれぞれ違う以上は、芸術作品への反応も違ってきます。全人類が等しく感動するような芸術は人間の多様性の故に存在せず、逆に人間の生き方が似たり寄ったりの世界なら多数の人にとって感動しうる芸術作品が生まれやすい、ともいえます。

    私の理解は大体この程度です。
     
     
    ●現代美術についての私の認識

    「現代絵画入門」や他の本を読んで思ったのは、人間は芸術のために様々な「ネタ出し」をしてきたということです。ネタ出しという俗な言葉に反感を持つ方もいるかもしれませんが、要はそういうことだと思います。美術については、昔は宗教画や美しい風景の絵で感動していたのがやがて飽き足らなくなり、新ネタを欲するようになった。大雑把ですがそういうことではないでしょうか。

    ただ、どんなネタを投入してもそれが一度認知されると「普段」になり「日常」になるので新鮮味が薄れて反応が鈍くなってしまいます。なので芸術的感動のために次から次へとネタを逐次投入して行かなければならなくなる。そんな状況が今も続いてきているのではないでしょうか。

    そもそもこの本を読んだきっかけは、美術、特に絵画はなぜ何がどこが良いのかわかりにくい、というかさして心を動かされないものが大きく取り上げられているのだろう、という疑問からでした。また、造形の類も、たとえば広場などに妙な形態のオブジェがあって芸術面(づら)しているのですがやはり心を動かされることがなく奇妙な物体以上の認識がなかったりします。あれは何故その位置にあって芸術の札が貼られているのか。おそらく他の芸術作品、音楽や文学にもわかりにくい作品は沢山あるのでしょう。でも、それらは絵画や彫刻・造形よりも人目につきにくい。また、わかりにくい絵画の芸術家(ピカソとか)よりもわかりにくい音楽家やわかりにくい作家はそれほど知られてないはずです(もっとも、これは私がその方面に詳しくないからかもしれませんが)。
     
     
    ●理屈付きの美術について

    そして、新たな芸術的感動のために様々な理屈をくっつけるようになってきました。その理屈が約束事になり、現代美術が「感じるだけ」のものから「わかる(理解する)」ことが必要になってくる、そんな過程を経てきている印象があります。でも、そんな画家の理屈にどこまで付き合うのか、付き合わねばならないのか疑問です。おそらくその理屈に付き合うのは、今までの表現に満足できず、かつ感動を求める人なのでしょう。その結果、画家の理屈について行った人とついて行かなかった人の間に大きな溝が生じます。「人間はこのようなものに感動してきた」世界から「一部の人間はこのようなものに感動したから、人間はこのようなものに感動した、ということにした」世界へ。専門家にこのような現代美術の価値観が生まれ支えられた経緯(=現代美術史)を説明されても作品に触れて感ずるところがなければ多くの人が釈然としない少数意見が代表意見となることになり、それは違和感が残るところです。「人類の美術史」という大きな枠でなくて「あまり広くない美術界」という立場で語るのなら、限られた世界の出来事として捉えられるのでまだ納得できる余地があるのですけどね。

    この理屈をつける作業はより美術を極めたい人によって、より「深い」感動を得るために行われたのだと思いますが、結果的には「別の」感動を得ることになったと考えています。経緯を考えると理屈付きの美術のほうが後から出て来たので「深い」の方が自然な気がするのですが、何に感動するかは人それぞれである以上、宗教画や美しい風景に感動した心と理屈付きの絵画を見て感動した心に優劣はつけられないので、私は、これは「別の」感動としたほうが適切だと判断しました。

    ただ、芸術(美術)全体でみれば、理屈を付けて新たな表現を獲得したことでそれによって感動する人が増えたと考えれば、芸術の機能上より多くの人間の感性にはたらきかけて感動させるほうが優れている、とはいえるので、その意味では芸術全体は進化した、とはいえると思います。以前の作品より優れているのではなく、別の感性の作品が加わって適応範囲が広がったイメージです。
     
     
    ●究極の芸術とは???

    それなら芸術の真理とか本質とか究極の芸術はないのか、という話になると一つ考えがあって、それらは脳科学に行きつくのではないかと思っています。これこれの条件の人間にこれこれの情報を入力し脳に刺激を与える、つまり作品に触れさせるとこれこれの確率でこれこれの脳細胞が興奮し即ち感動と呼ばれる状態に至るのではないか……。芸術的感動という名の脳への刺激と快楽。これを書いている私も若干味気ないものを感じますが、どうもそうなる予感がします。
     
     
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    今回は芸術な雰囲気の曲を。


    「午後の銀幕」右側にもありますが、念のため。
     

     

    以下は芸術の特集です。

    P-modelのアルバム「IN A MODEL ROOM」には「美術館で会った人だろ」(ART MANIA)が収録されています。
    PSY・S(サイズ)のアルバム「NON-FICTION」に収録されている「Robot」という曲もこの話題に少し触れているような感じで「わからないけど これきれいだね」という箇所が印象的です。このアルバムには「Parachute Limit(パラシュート・リミット)」「EARTH 〜木の上の方舟〜」「Angel Night〜天使のいる場所〜」といったある時代の人にはピン!とくる曲も入っています。どれも楽しめる曲なので聴いたことのない方は聴いてほしいです。EARTHだけでも!お願い!
    そして大貫妙子のアルバム「Comin’Soon」にはお待ちかね(?)の「メトロポリタン美術館」が収録されています。