写真美術館へようこそ(飯沢耕太郎著・講談社現代新書)感想

本書の初版は1996年で、主に写真芸術の歴史的な移り変わりについて述べています。写真を撮る、そして写真を撮って自己表現することは、それこそ写真を撮るのに必要なカメラが発明されたときから始まり、そしてカメラやフィルムの技術の発展に連動して写真作品も新たな道を切り開いてきました。本書の解説はカメラの黎明期、壁の小穴を光が通って壁に景色が映る現象、小穴投影から始まります。

 
カメラが発明され、白黒で露光時間も長いものの写真を撮ることができるようになり、そして写真家が誕生する。写真という新しい表現を、画家はどう意識していたのか、逆に写真家は絵画をどう意識していたのか。また、写真ならではの表現、芸術とは?そんな話が続きます。

人間を撮る、とはどういう考えの元でなされることなのか。ヌード写真にも少しページを割いて解説してます。風景を、物体を、都市を撮るとはどういうことか。様々な対象の色々な写真を挙げて、これまでの写真芸術の歴史の説明が続きます。

戦場を、社会を撮る、とは。これまで芸術寄りの話でしたが、ここから少しフォトジャーナリズムの話になります。人々の心を動かすための芸術ではなく、物事を伝達するための報道に適していることも写真の一面です。そして芸術の写真と報道の写真が一つに重なります。私、自分を撮る、とは。それが報道でもあり、芸術でもあることが実感できるでしょう。

最後はまた技術の話になります。カラー写真の登場。カメラのフレーム(枠)の話。複製。インスタレーション(立体作品)の素材。ここで本文が一区切りつきます。

注目した点をいくつか。「写真は選択の芸術」(P5)、「写真には意識よりも無意識のほうがよく写ってしまう。」(P6)は記憶に残りそうな言葉です。P137には「スフィンクスをバックに本物のお侍さんがたくさん写っている写真」が掲載されています。何があったのかは読んでからのお楽しみです(文章短いですが)。

また、P142の写真家、ロバート・キャパの写真がブレている理由が記載されています。既に知られていることだとは思いますが、念のためここに記載しておきます。P145には、1991の湾岸戦争のときに話題になった「油まみれの海鳥」の写真についての話もあります。要は、情報操作が行われたやつです(参考:湾岸戦争でテレビは何を伝えたのか(PDF)P15 – 大手前大学・大手前短期大学リポジトリ)。私自身はこの写真を「鳥が汚れるより人が死ぬことのほうが大ごとなのになあ」と思いながらその写真を見た記憶が、あいまいながらあります。

ここで、改めて本書の構成の説明をします。本文はP207までですが、写真のため品質の高い紙を使っているので普通の新書より厚めです。また、カラーページもあります。そして、本文とは別に本を後ろのほうからも開いても読めるようになっています。つまり左開き右とじの縦書きの文章の他に、右開き左とじで横書きの文章のパートもあるわけです。

このパートに写真の出典の他に写真集のガイドがあって、その文章がその写真集を見たくなってしまう、という意味で上手いです。「しかし結局のところ、その写真集の評価を決定づけていくのは読者の想像力なのではないかと思う。」(P220(16)、(16)は横書きパートでのページ数)とか、「写真集と読み解くために、写真家たちが一歩先に既視のイメージとしてさし示す世界像を受けとめ、見透かしていく想像力を鍛えあげていかなければならないと思う。」(P219(17))とか感心しました。美術館・ギャラリーガイドも豊富で、写真芸術という文化の入門書として至れり尽くせりで、写真の世界に初めに触れるのに本当にいい本だと思います。
 
 
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今回はこの曲、


「ドップラー校歌」 歌は朝音ボウさんです!
 

 

今回は本書で紹介された写真集です。洋書はあまり詳しくないので、よくご確認の上ご購入願います。

ダイアン・アーバスは英語版と日本語版の二つ用意しました。「1992年に筑摩書房から日本語版が出たが、残念なことに一部墨塗りの無残な形だった。」(本書 P221(15))とのことです。

「筑豊のこどもたち」も二つ用意しました(出版社が異なります)。