聖書考古学 遺跡が語る真実(長谷川修一著・中公新書) 感想

この本の主な内容は旧約聖書と出土した資料との照合による検証で、旧約聖書の創世記の12章から50章、出エジプト記、ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記のあたりまでが取り扱っている主な内容です。

 
以下、各章ごとに説明ならびに感想を述べていきます。

第一章は聖書の簡単な説明と、聖書自体の考古学的検証です。「レニングラード写本」とか「ビブリア・ヘブライカ」とか初めて知りました。そして、聖書がどんな人によっていつ書かれたのか、そしてどのような目的があったのか、ということが周辺国家との情勢とともに語られています。

(メモ:P29、申命記史=申命記、ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記の五書、申命記史観に基づいて編纂された申命記史の存在をドイツ人マルティン・ノートが提唱)

第二章は考古学の基礎知識の説明と、それによって聖書の内容をどう考えるか、という点についての説明です。

第三章から第六章が、この記事で冒頭に述べた事柄を記述してます。それに関して、アブラハムやラクダ、聖書に登場した街の遺跡や遺品、旧約聖書のエピソードで登場するエジプトの文献やゴリアト(ゴリアテ)の武装、アラム語やモアブ語の碑文など、検討できる各方面の要素について説明しています。

なお、以前書いた記事、「聖書 これをいかに読むか(赤司道雄著・中公新書) メモ」で触れたヨシュアのカナン侵攻に関してはP111以降で、また過越(すぎこし、過越節、過越祭)についてはP129から触れていました。

第三章から第六章については、北イスラエル王国や南ユダ王国の情勢を説明する以上は必然的に周辺国の説明もする必要があるので、結果として古代中東史の本を読んでいるのと近い感触がします。

(メモ:P183、新共同訳と原文のヘブライ語からの訳が異なる、との説明。私としては、新共同訳が原文と異なる訳をしていることを明言しているか疑問。)

(メモ:P206、「ヨハネ自身、あるいは彼の弟子たちがエッセネ派だった、と結論するのは早急すぎる。」P207、(エッセネ派に限らず、)「終末思想や浸礼は起元一世紀のユダヤ教徒の間に広く行きわたっていた思想や慣習だった」とのこと。(浸礼≒洗礼))

第七章は、この本が書かれた時点(本書の初版は2013年)での聖書と歴史学・考古学との関係を考察したもので、ある意味第一章・第二章の続きともいえます。

一通り読んだ感想としては、おおよそ紀元前2200年のあたりからセレウコス朝、ハスモン朝、ローマ、ヘロデ王を駆け足で語って紀元70年あたりまでが本書のメインの第三章から第六章までの範囲なので、この時代について調べる際にリファレンス的に使う気がします。ある意味、旧約聖書についての古代中東小史ともいえるのではないでしょうか。それ故に、物足りなくなったときにより多くの情報を得るために巻末の読書案内があるのだと思います。もっとも、もう初版発行より6年も経っているので、実際には同一著者の本で新版がでていないか念のため確認しておいたほうが良さそうです。言い切ること、断定することが少ない本でしたが、それ故に学問的誠実さを感じて好感が持てました。
 
 
【宣伝です】趣味で作曲した作品の動画などをYoutubeで公開してます。
チャンネル登録していただけたらありがたいです。ニコニコ動画もどうぞ。

今回はこの曲です。


「水の鏡β」歌は出宅ナイさんです。
 

 

今回は本書の読書案内で紹介されていた本や、聖書・キリスト教などの本の特集です。