• タグ別アーカイブ: 講談社現代新書
  • 写真美術館へようこそ(飯沢耕太郎著・講談社現代新書)感想

    本書の初版は1996年で、主に写真芸術の歴史的な移り変わりについて述べています。写真を撮る、そして写真を撮って自己表現することは、それこそ写真を撮るのに必要なカメラが発明されたときから始まり、そしてカメラやフィルムの技術の発展に連動して写真作品も新たな道を切り開いてきました。本書の解説はカメラの黎明期、壁の小穴を光が通って壁に景色が映る現象、小穴投影から始まります。

     
    カメラが発明され、白黒で露光時間も長いものの写真を撮ることができるようになり、そして写真家が誕生する。写真という新しい表現を、画家はどう意識していたのか、逆に写真家は絵画をどう意識していたのか。また、写真ならではの表現、芸術とは?そんな話が続きます。

    人間を撮る、とはどういう考えの元でなされることなのか。ヌード写真にも少しページを割いて解説してます。風景を、物体を、都市を撮るとはどういうことか。様々な対象の色々な写真を挙げて、これまでの写真芸術の歴史の説明が続きます。

    戦場を、社会を撮る、とは。これまで芸術寄りの話でしたが、ここから少しフォトジャーナリズムの話になります。人々の心を動かすための芸術ではなく、物事を伝達するための報道に適していることも写真の一面です。そして芸術の写真と報道の写真が一つに重なります。私、自分を撮る、とは。それが報道でもあり、芸術でもあることが実感できるでしょう。

    最後はまた技術の話になります。カラー写真の登場。カメラのフレーム(枠)の話。複製。インスタレーション(立体作品)の素材。ここで本文が一区切りつきます。

    注目した点をいくつか。「写真は選択の芸術」(P5)、「写真には意識よりも無意識のほうがよく写ってしまう。」(P6)は記憶に残りそうな言葉です。P137には「スフィンクスをバックに本物のお侍さんがたくさん写っている写真」が掲載されています。何があったのかは読んでからのお楽しみです(文章短いですが)。

    また、P142の写真家、ロバート・キャパの写真がブレている理由が記載されています。既に知られていることだとは思いますが、念のためここに記載しておきます。P145には、1991の湾岸戦争のときに話題になった「油まみれの海鳥」の写真についての話もあります。要は、情報操作が行われたやつです(参考:湾岸戦争でテレビは何を伝えたのか(PDF)P15 – 大手前大学・大手前短期大学リポジトリ)。私自身はこの写真を「鳥が汚れるより人が死ぬことのほうが大ごとなのになあ」と思いながらその写真を見た記憶が、あいまいながらあります。

    ここで、改めて本書の構成の説明をします。本文はP207までですが、写真のため品質の高い紙を使っているので普通の新書より厚めです。また、カラーページもあります。そして、本文とは別に本を後ろのほうからも開いても読めるようになっています。つまり左開き右とじの縦書きの文章の他に、右開き左とじで横書きの文章のパートもあるわけです。

    このパートに写真の出典の他に写真集のガイドがあって、その文章がその写真集を見たくなってしまう、という意味で上手いです。「しかし結局のところ、その写真集の評価を決定づけていくのは読者の想像力なのではないかと思う。」(P220(16)、(16)は横書きパートでのページ数)とか、「写真集と読み解くために、写真家たちが一歩先に既視のイメージとしてさし示す世界像を受けとめ、見透かしていく想像力を鍛えあげていかなければならないと思う。」(P219(17))とか感心しました。美術館・ギャラリーガイドも豊富で、写真芸術という文化の入門書として至れり尽くせりで、写真の世界に初めに触れるのに本当にいい本だと思います。
     
     
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    今回はこの曲、


    「ドップラー校歌」 歌は朝音ボウさんです!
     

     

    今回は本書で紹介された写真集です。洋書はあまり詳しくないので、よくご確認の上ご購入願います。

    ダイアン・アーバスは英語版と日本語版の二つ用意しました。「1992年に筑摩書房から日本語版が出たが、残念なことに一部墨塗りの無残な形だった。」(本書 P221(15))とのことです。

    「筑豊のこどもたち」も二つ用意しました(出版社が異なります)。


  • 日本の神々 古代人の精神世界(平野仁啓著・講談社現代新書)感想とメモ

    本書の初版は昭和57年(1982年)8月20日、今から35以上も前になります。数々の論文・考察が引用されていて、時代の反映なのか折口信夫、柳田国男の存在感がやはり目立っている感じがします。また、出雲大社に関する事柄については千家尊統の論に負うところが多いです。

     
    本書の議論が今に通じるかどうかは私も現代の議論に詳しくないのでなんとも言えません。ただ、著者の考察に若干純朴なところを感じたせいか、全てをそのまま受け入れる気にはなりませんでした。また、折口信夫の論も推測を重ねた印象があるので心理的には距離を置いています。しかし、本書全体としては日本神道について考えるためのヒントを十分に提供しており、慎重に各論を判断した上でなら一読する価値はあるでしょう。

    以下は私なりに本書の内容をメモしたもので、自分で見返すために書いたようなものです。4章・5章が読み応えがあった箇所で、メモの量にもそれが現れています。若干私の主観が入っている箇所(「(?)」とか)もございますのでご注意願います。

    なお、未電子書籍化なのでご購入はページ下部からどうぞ。
     
     
    日本の神々 古代人の精神世界 メモ

    1章 生と死の宗教意識

    ハイヌヴェレ神話→オオゲツヒメノ神、ウケモチノ神→
    壊されやすい土偶(完全な形で発見されることは稀)(1)

    アイヌとアメリカインディアン(原文ママ)の考え→
    「動物は人間に食せられるということを悦ぶ」
    (松本信広「日本神話の研究」)→
    死と新たな生が組になっている(2)

    (1)(食物の確保)、(2)(新しい生)→土偶をこわして配布

    蛇体把手、顔面把手、甕棺葬、石棒と石柱
     
     
    2章 稲作の宗教意識

    稲作→太陽→鏡
    銅鐸は稲作のまつりに使われた?
    高床式倉庫には神がまつられていた?(折口信夫を参照)
    海の彼方の常世の国、または天から鳥が穀物をもたらした
    天から天女が穀物をもたらした
     
     
    3章 日の御子の出現

    古墳の出現→神社?

    大和の大王家は早くから太陽神を守護霊
    (岡田精司「天皇家始祖神話の研究」)、稲作の影響
    (日祀部(日奉部)、日置部(水神→河口や川の合流点)、日沈宮)

    大嘗祭(天皇の即位式):
    天皇霊(外来霊)を天皇の体に取り入れることによって
    直接にアマテラス大神の孫という関係に(折口信夫を参照)
    その年の新米が必要

    新嘗:
    母稲にすべての稲魂が集中して保持される(東南アジア)、冬至→
    (高天原ではなく)常世から来年の豊作を祝福する神が来訪?
    稲の精霊の復活が目的

    新嘗+日継→大嘗祭、日の御子は稲の精霊でもあった

    稲を高く積んだ祭場→高千穂(柳田国男「稲の産屋」)
    高天原で稲作がはじめられた→ニニギノ尊は稲の精霊

    「吾が高天原に所御す斎庭の穂を以て、亦吾が児に御せまつるべし」
    →天皇がアマテラス大神に稲の新穀を供進することが新嘗に追加
     
     
    4章 神をまつる人々

    神が人にまつることを要求する

    伊勢神宮、斎王、渡会氏、宇治氏、荒木田氏

    伊勢神宮は、土着の地方神の存在の上に、
    アマテラス大神の信仰が重ねられた
    (藤谷俊夫・直木孝次郎「伊勢神宮」)

    カモ神社(上賀茂神社・下鴨神社)
    男が政治、女が神をまつる
    鴨川の水源のひとつの貴布禰神社(貴船神社?)の水神を
    まつったのが最初のカモ神社(座田司「御阿礼神事」)
    神をまつる巫女が神の子(その子も神)を生む話

    神婚:
    ゼウスとデメテル→麦の穂、共同体の農作の豊穣、社会に開かれてる
    タマヨリヒメ→農作の豊穣からワケイカツチノ神、社会に閉じられた

    伊勢神宮の斎王≒カモ神社の斎院→両神社の類似性
    →伊勢神宮も男が政治、女が神をまつる(?)
    アマテラス大神は、もとは新嘗の儀礼をおこなう巫女(?)

    出雲国造 熊野神社→出雲大社(杵築大社)
    大和 オオクニヌシノ神
    出雲 オオナモチノ神
    三輪山にまつられているオオモノヌシノ神は
    オオナモチノ神の和魂(ニギミタマ)を分霊したもの
    (「出雲の国の造の神賀詞」)
    世襲する男の神主によって神まつり
    神火で調理した斎食をたべることによって(略)
    先祖のアメノホヒノ命それ自体となる(千家尊統)
    信州諏訪神社の大祝(祭司=祭神)≒出雲国造
    紀伊国、日前神社、国懸神社
    出雲国風土記ー神賀詞ー延喜式の順に成立か
    白鵠(しらみどり、「鵠」はくぐい、白鳥の古名)は
    魂を運ぶもの、または魂の象徴
    御忌祭、竜蛇(セグロウミヘビ)
    海の彼方の常世の国からの霊威がオオクニヌシノ神の原型(千家尊統)
    海の神の信仰にオオクニヌシの祭祀が重ねられた(著者)
    古伝新嘗祭(本来は熊野神社のまつり)
    まつりの対称が穀神クシミケノノ命→オオクニヌシノ神に

    美保神社、一年神主、蒼柴垣神事、湯立神託、神がかり
    ミホススミノ命からミホツヒメ(コトシロヌシノ神)

    水の禊→一年神主、斎王
    火の禊→出雲国造
    古代ギリシアやローマ、インドの火に対する信仰
    忌部の里の神の湯
     
     
    5章 神社と自然

    (海)
    志賀海神社、住吉神社、出雲大社、大湊神社、気多神社
    大洗磯崎薬師菩薩神社→オオナモチノ神またはその御子神
    [他 籠神社、玉前神社、沼名前神社、伊勢内宮]

    宗像神社、厳島神社
    あとずさりしてまつる(益田勝実「秘儀の島」)
    沖ノ島(宗像神社)の神まつりでアマテラス大神とスサノオノ命の
    うけいの祭式がおこなわれた(益田勝実「秘儀の島」)
    [他 都久夫須麻神社]

    (川)
    熊野本宮のケツミコノ神(穀神)=スサノオノ神
    出雲の熊野神社のクシミケノノ命(穀神)=スサノオノ神
    大和の広瀬神社のワカウカメノ命(穀神←ウカ)
    伊豆の広瀬神社、賀茂御祖神社、貴船神社、丹生川上神社
    大きな河川ではなく小川のほとりなどに式内社がある。そこに
    集落がはじめて開かれたため(菱沼男・梅田義彦「相模の古社」)
    [他 熊野新宮、賀茂神社(上・下)、寒田神社]

    (山)
    大神神社(三輪山、泊瀬川、纏向川)、筑波山神社(筑波山)、
    日吉神社(牛尾山)、三上山
    かむなび…山と「川」、出雲系の言葉?、
    葛木のかむなび(葛城川)、
    飛鳥のかむなび、加夜奈留美命神社(三諸山、飛鳥川)
    佐太神社(朝日山、佐太川)、伊勢内宮(島路山、五十鈴川)
    山の神→農耕→蛇体
    [他 諏訪神社(信濃国)、松尾神社、御上神社、稲荷神社(山城国)、
    大穴持神社(大隅国)、浅間神社、火男火売神社、大物忌神社、
    大神山神社(伯耆国)]

    (火山)
    オオナモチノ神(大隅と薩摩との国境)
    アサマノ神(富士山)、ヒノオノ神、ヒノメノ神(鶴見山)
    オオモノイミノ神(オオイミノ神?)(鳥海山)

    二十二社、大鳥神社、
    鴨都味波八重事代主命神社(鴨都味波神社)、三室山、
    葛城坐一言主神社、葛城山、高天彦神社、神体山(白雲岳)
    高鴨阿治須岐託彦根命神社、葛木御歳神社、葛木御県神社

    神社を日常生活圏の内側、外側で分ける考え方
     
     
    6章 日本の神の原型と機能

    自然→神社、ちはやぶる神、荒ぶる神、
    古墳→神社、祖神

    吉野水分神社の玉依姫神像
    若狭比古神社の神主の家系
    熊野本宮の熊野部千与定
    飯石神社、竜田の風神

    天つ神→自然神
    国つ神→農耕神

    各問題提起(性・権力構造・宗教倫理・自然)

    以上
     
     
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    たまには静かに思いを馳せて……


    「月の夜に静かに」歌は朱音イナリさんです。
     

     

    今回は日本神話の本の特集です。

    新マンガ日本史 創刊号「ヤマトタケル」の漫画は和月伸宏先生です。


  • 漢詩をたのしむ(林田愼之助著・講談社現代新書)感想

    「国破れて山河在り」「春眠 暁を覚えず」……少しキーボードを打っただけで変換ソフトが候補に挙げてくれる便利な時代。そんな今の時代でも漢詩は楽しめることを改めて確認しました。今回は講談社現代新書の林田愼之助著「漢詩をたのしむ」を紹介します。今までで一番とっつきやすい漢詩の本でした。

     
    漢詩には名文句が沢山出てきます。「歳月 人を待たず」「少年老い易く 学成り難し」(注・この二句は別の作者の別の作品からのものです)や「君に勧む更に尽くせ 一杯の酒」「一杯一杯復た一杯」のように聞くことの多いものから「春風に意を得て 馬蹄疾し 一日看尽くす 長安の花」「老鶴一声 山月は高し」「来るも亦た一布衣 去るも亦た一布衣」「独り寒江の雪に釣る」「天は蒼蒼たり 野は茫茫たり」「一架の薔薇 満院に香し」のように「どこかできいたことがあるような……?」と思えるものまで、この本にはそんないい調子の文句が沢山載っています。「朗吟して飛び下りる祝融峰」なんてのにはギョっとしました。それらを眺める……そう、読むというより眺めるだけで楽しいというのが一番に思ったことです。

    また、紹介する漢詩が概ね短いのがいいところです。短いけど充分味わえる、といったほうが近いでしょうか。だから短い時間に一つ二つつまむように見ることも可能です。そして、五言・七言の絶句や律詩だけでなく他のタイプの詩もあるので新鮮な感覚も得られるでしょう。

    なお、この本では紹介する漢詩には平易な文での訳と最小限の解説がついているので、かなりすんなりと漢詩の世界に触れることができます。あくまでも紹介・解説であって勉強や説教の類ではないのでとても読みやすかったです。

    あと、人によっては音読する楽しみ方もあるのではないかと思いました。もちろん書き下し文のほうで、少し読んでみたのですが結構リズムよく読めて気持ちよかったです。

    虫の声、鳴き声に触れた詩があったのでメモしておきます。楊万里の「夏の夜に涼を追う」(P225)という詩です。

    惜しむらくは、この本が電子書籍になっていないということです。本当にいい本なのにな。講談社は是非本書を電書化していただきたいです。
     
     
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    漢詩といえば大自然、私の場合はこの曲に。


    「北海道にやって来た」歌は朱音イナリさんです。
     

     

    今回は漢詩特集です。


  • 聖書の奇跡 その謎をさぐる(金子史朗著・講談社現代新書) 感想

    旧約聖書に記載された超常的な記述について科学的な解釈を試みた本です。言い換えるなら、科学的な解釈が可能な箇所について取り上げた本といったほうが正確かもしれません。昭和55年(1980年)7月20日初版発行。今からおおよそ38年ほど前の本です。今ではこの方面の知見もかなり溜まってきていると思います。

     
    エブラ王国。ダマスカスの北、地中海とユーフラテス川に挟まれる位置にあった国で、本書によれば紀元前2400年頃に王国繁栄の基礎ができていて、エブラ語の完成度からすると紀元前2800年以前には成立していたと推測されています。その国の公文書ともいえる楔形文字粘土板が約1万6630点も発見された……NHKテキストViewの記事「『旧約聖書』はいつ、どのように編纂されたのか」によると、旧約聖書のまとまりのあるものが成立したのは前5世紀から前4世紀頃とのことです。

    そして、それよりもはるか昔の、その王国の粘土板に「創世記」に出てくる都市の名前が刻まれていました。アデマ、ゼポイム、ベラ、そして……ソドム、ゴモラ。ソドムとゴモラは聖書以外に知られていなかった名前で想像の産物と考えられていましたが、この両市は紀元前2250年以前には実在していたとのこと。となると、旧約聖書とエブラ王国の関係は?共通点は?という話が少し載ってます。

    次に、聖書の時代の気候についての話があります。本書によると、紀元前5000年から同2350年の間は西アジア、エジプト、北アフリカは高温多湿だったとのことです。現代の研究でもその説は変わってないのか気になるところではあります。しかし紀元前2350年から同500年の間は極乾期(ハイパーアリド)に入り、気候が乾燥していったのに加え、放牧ほかの人為的な要因により豊穣な大地が不毛の荒野になってしまったのではないか……と述べられています。私はこの点について現在の詳しい状況は知らないのですが、もしかしたら人為的な大地の回復も可能ではないのかという気がします。

    その後、先に出てきたソドムとゴモラの謎に迫ります。実在していたのなら、どこにあったのか。途中、その町から逃げるときに振り返ったばっかりに塩の柱になってしまったロトの妻の話題が出て来ます。私はイザナギもオルフェウスも振り返ったばっかりに痛い目にあったことが思い起こされました。また、ロトの妻の話については、現地を知ると知らぬとでは大違いな話でした。ロトが災厄を逃れてついた町、ゾアルの話題も出てきます。どこにあったのか。本書が書かれた当時の、ですが「現在の見解」(P.67)としての推測が書かれています。

    そして、なぜ……というより「何で」ソドムとゴモラは滅びたのか。これも、本書の見解は推測以上のものではないのですが、現地を知っているのと知らないのとでは印象がかなり変わってくる話だと思いました。そして、ヨーロッパやアメリカの人たちも、そんなに本書に書かれている話は知らないのだろうな、と考えています。

    その他、ノアの洪水、モーセの十大奇跡、紅海の奇跡について触れています。前の二つについては可能性に触れただけと言っていいでしょう。後の一つについてはP.112に「たぶんここでいう『紅海』というのは、沼沢地帯に生えている『葦(あし)の海』つまり Reed Sea が誤って、Red Sea と訳されたのではあるまいか。」との話で、ヘブライ語やアラム語、もしかしたらラテン語まで範疇に入れて、それらの言語でも同様に通じる議論ならいいのかもしれませんが不安です。

    また、本書によるとモーセの十大奇跡と紅海の奇跡は紀元前1400年代の初め頃か、あるいはその100年以上あとのラメセス二世の在位の期間に起こったのではないか、ということですが、本書でのキーパーソンならぬキー火山といえるサントリーニ火山はその時期に噴火した記録が無い(紀元前1613±7年の次が紀元前197年)ので注意が必要です。

    ここから地震の話が多くなります。民数記16章31~35、47~50、20章1~11、13、エリコの城壁が崩れ落ちた話が地震と絡めて語られます。城壁という言葉からそれが頑丈なものであると思いがちです。しかし、それは案外もろいものだったのではないか、という話もあります。

    最後に、地質調査の話が出てきます。長い年月をかけて造山運動がここで起こっていたことがわかったのですが、詩篇104篇5~8はその造山運動を、ゼカリヤ書14章4~5、アモス書8章9~10、詩篇114篇3~8、同39篇14~15は地震とともに地盤、大地の動きをも語っているのではないか、という話です。少し後のP.174の出エジプト記19章18の解説もそのニュアンスを匂わしています。私は詩篇39篇14~15については、当時の人々にとって「地の深い所」は民俗学的な意味は無いのか、気になりました。

    全体を通して言うなら、今もそうかもしれませんが資料が少ない時代の話なので推測が多くなるのは仕方がない面があると思います。更にいうなら、本書カバーの記述によると著者は東京文理科大学(現・筑波大学)理学部地学科を卒業した構造地形学専攻の理学博士であるので、地震や地盤の話に重点が置かれるのはある意味当然ともいえるでしょう。ただ、その箇所の語り口に少々強引なものを感じたのも確かです。繰り返しになりますが本書は1980年に出版された本であり、現在の知見ではないことを考慮して読まれることをお勧めします。
     
     
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    どうするどうなる死後の世界。


    今回は「天国と地獄」序曲のおなじみの部分です。
     

     

    以下、聖書に関連したアイテムです。

    ※岡村靖幸のアルバム「靖幸」の5曲目は「聖書(バイブル)」。
    聖書考古学はいつか読もうと思います。


  • 聖書の起源(山形孝夫著・講談社現代新書) 感想

    今回は講談社現代新書の山形孝夫著「聖書の起源」を紹介したいと思います。この本の良かったところはタイトルの聖書の起源について事細かく論じられていたこともさることながら、思いのほか聖書以外の神話の影響について記されていたことでした。そういう風に聖書をとらえることには興味があるので読んでいて楽しかったです。

     
    さて。本書について語る前に、以前このブログで紹介した「天使とは何か」(岡田温司著・中公新書)についてまとめておこうと思います。といいますのも、この本も他の神話からの影響について触れていて、それを一覧にすることで聖書なりキリスト教なりをより良く把握する手助けになると思うからです。ま、私なりの備忘録ということで。

    「天使とは何か」で指摘されていたのは以下の通りです。
    ・天使にキューピッドの要素(愛の矢)を取り入れる
    ・タナトス、ヘルメス、ニケー、イリスには翼(の要素)がある
    ・裸童プットー(プシュケー)、アモリーニ(愛神アモル)、バッコイ、小精霊スピリテッロ(スピリット)の影響
    ・キリストの「精霊」や天使はギリシャ語の「プネウマ」(気息・精気)から
    ・智天使ケルビムの語源はアッシリア語・アッカド語の「ケルブ」「クリブ」(偉大な・強大な、祝福された・崇拝された)
    ・ケルビムの姿はラマッスなどのメソポタミアの守り神たちが起源
    ・古代バビロニアの有翼の守護神マルドゥック、ゾロアスター教の守護霊フラワシのイメージ
    ・古代ローマの有翼少年の守護霊ラレス
    ・堕天使とティタンの神話との類似性
    ・ダイモンに関する言及
    ・ギリシャの精霊サテュロス、メソポタミアの精霊シェドゥ、シリアの雷神バァルの悪霊(悪魔)化

    では、本書「聖書の起源」の感想について。兄カインの農産物ではなく弟カインの畜産物を神は選んだ、という話と並行してメソポタミア神話での女神が牧畜神と農耕神のどちらを選ぶか、という話が紹介されています。こちらも勝ったのは牧畜神。私は日本神話の海幸彦(兄)と山幸彦(弟)の話を思い出しました。勝ったのは山幸彦(弟)。あと、これは少し趣が異なるかもしれませんが、かぐや姫に五人の貴公子が求婚したらレアな品を要求されたとか、そういえばヘラクレスの神話もアレとってこいコレとってこいとか言われていたことを思い出しました。これらの話がどこまで関連性があるのが気になるところです。そして農耕者と遊牧者の争いはヤコブとエソウの代に持ち越され、今度は農耕者ヤコブの勝ち。土地取得の話も加わって、これらは遊牧から農耕への民族的移行を意味しているのではないか、とのことです。

    続いて、P.58から出エジプト記は「祭儀の折に朗誦される式文」「ドラマとして演じられた一種の祭儀劇」だったのではないか、という北欧祭儀学派のペデルセンの説と、それに関連して古代オリエントの過越祭(ペサハ・魔除け-旅出-収穫祈願の祭り)が紹介されています。また、P.65にいわゆるモーセの十戒のシナイ顕現伝承はこれも古代オリエントの収穫祭が起源の「仮庵(かりいお)の祭で朗誦された祭儀文」なのではないか、という伝承史学派のラートの説も出てきます。うーん、そこまである意味史実性が無いと言い切っていいものなのでしょうか。そして、本書は1976年発行なのですが、もしかしたらこれらは現在では定説となっているのでしょうか。これ以上は何とも言えないです。

    少し話しが逸れますが、P.68からの十戒の話は意表をつかれた感じで面白かったです。戒律は本来は禁止命令ではなく断言的形式の律法であり、直訳すると「(略)~はないだろう。あるはずがない」となるそうで、これは背反行為の衝動の抑圧ではなく強い選択意志の表現、とのことです。

    この後、砂漠の唯一の神ヤハウェの教えが農耕化に伴いカナン地域のバァル神話の影響で多神教化していきます。本書ではバァル神話が、そしてその原型といわれるギリシャ世界のアドニス神話が詳細に紹介されています。その際、エジプト神話などにも少し触れています。季節のサイクルから着想を得た死と再生の物語は、キリストの復活劇に影響を与えているのではないか、そして、大地母神に対して死と再生を演じたのは男性の穀物神ですが、都市国家の崩壊とともに古代フェニキアのエシュムン神やギリシャ神話のアスクレピオスのような遊行する治癒神なったのではないか、ということが述べられています。なお、本書ではアスクレピオスのことを「素性の知れない神様」と書いていますが、Wikipediaのアスクレピオスの項目には「アポローンとコローニスの子」と記載されていたので、ここは少し気になりました。

    次に、なぜ聖書にはイエスによる病気なおしの話が多くあるのか。イエスに先行した洗礼者ヨハネにはそんな話無いのにです。それは、民衆の支持を得た治癒神たちと競合する状況にあったのではないか、という推測から話が進められていきます。イエスの病気なおしの舞台となったガリラヤはユダヤ教とオリエント的-ヘレニズム的宗教とが混淆しており、また治癒神信仰の一拠点でもあるフェニキアの都市シドンと近いところでした。福音書記者マルコは、その当時のガリラヤの状況を強く意識して聖書を記したのではないか……ということが、上記以外の要素も加味して述べられています。

    そして、キリスト教が権力の助力も得て宗教的勝利者となり権力を支える背景になると同時に、イエスの治癒神的な側面が今度はイコン崇拝と聖母マリア信仰に移行した、また、聖母マリア信仰にカナンの女神の影響がある、というのが本書の論です。私は、そういう面もあるのかもしれませんが著者ほど強く断定できるか、というともう少し証拠というか根拠とすべき論が欲しいところです。

    ただ、「天使とは何か」で述べられていた天使信仰や、あるいは聖人信仰などキリスト教には多神教的要素も案外あると思っています。

    (参考) Laudate(ラウダーテ) 聖人カレンダー365日

    本書の最後に、最後の晩餐は過越祭と死と再生の物語が合わさったものであること、そして、福音書がW・ヴレーデやJ・ヴェルハウゼン、カール・ルードヴッヒ・シュミット、ルドルフ・ブルトマンの言を引いて、そして例をあげて、いかに編集され、変えられてきているかが語られています。P.191では「マルコ福音書を構成する伝承群は、イエスの受難物語という、ただひとつの例外をのぞいては、個々の独立した断片からなっていた。」とまで言われています。P.205の「明白なことは、伝承を生みだしたのは、イエスに関する歴史的関心ではなく、教団自体の生活に根差した要求であったということである。」というのがこれまでの論のまとめといえます。

    それにしても、先の本(「天使とは何か」)で天使になぞらえられたと思えば本書では治癒神と比較させられたりで、つまりイエス・キリストには様々な側面があるわけで、そのこともまた、聖書が編集された……言い換えれば、よく考えてつくられた……ことを示しているのではないか、と思った次第です。
     
     
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    今回はこの曲、


    「呪い、魔王とメシア」歌は穂歌ソラさんです。
     

     

    以下は聖書関連の特集です。

    ※岡村靖幸のアルバム「靖幸」の5曲目は「聖書(バイブル)」。いい曲。