聖書の起源(山形孝夫著・講談社現代新書) 感想

今回は講談社現代新書の山形孝夫著「聖書の起源」を紹介したいと思います。この本の良かったところはタイトルの聖書の起源について事細かく論じられていたこともさることながら、思いのほか聖書以外の神話の影響について記されていたことでした。そういう風に聖書をとらえることには興味があるので読んでいて楽しかったです。

 
さて。本書について語る前に、以前このブログで紹介した「天使とは何か」(岡田温司著・中公新書)についてまとめておこうと思います。といいますのも、この本も他の神話からの影響について触れていて、それを一覧にすることで聖書なりキリスト教なりをより良く把握する手助けになると思うからです。ま、私なりの備忘録ということで。

「天使とは何か」で指摘されていたのは以下の通りです。
・天使にキューピッドの要素(愛の矢)を取り入れる
・タナトス、ヘルメス、ニケー、イリスには翼(の要素)がある
・裸童プットー(プシュケー)、アモリーニ(愛神アモル)、バッコイ、小精霊スピリテッロ(スピリット)の影響
・キリストの「精霊」や天使はギリシャ語の「プネウマ」(気息・精気)から
・智天使ケルビムの語源はアッシリア語・アッカド語の「ケルブ」「クリブ」(偉大な・強大な、祝福された・崇拝された)
・ケルビムの姿はラマッスなどのメソポタミアの守り神たちが起源
・古代バビロニアの有翼の守護神マルドゥック、ゾロアスター教の守護霊フラワシのイメージ
・古代ローマの有翼少年の守護霊ラレス
・堕天使とティタンの神話との類似性
・ダイモンに関する言及
・ギリシャの精霊サテュロス、メソポタミアの精霊シェドゥ、シリアの雷神バァルの悪霊(悪魔)化

では、本書「聖書の起源」の感想について。兄カインの農産物ではなく弟カインの畜産物を神は選んだ、という話と並行してメソポタミア神話での女神が牧畜神と農耕神のどちらを選ぶか、という話が紹介されています。こちらも勝ったのは牧畜神。私は日本神話の海幸彦(兄)と山幸彦(弟)の話を思い出しました。勝ったのは山幸彦(弟)。あと、これは少し趣が異なるかもしれませんが、かぐや姫に五人の貴公子が求婚したらレアな品を要求されたとか、そういえばヘラクレスの神話もアレとってこいコレとってこいとか言われていたことを思い出しました。これらの話がどこまで関連性があるのが気になるところです。そして農耕者と遊牧者の争いはヤコブとエソウの代に持ち越され、今度は農耕者ヤコブの勝ち。土地取得の話も加わって、これらは遊牧から農耕への民族的移行を意味しているのではないか、とのことです。

続いて、P.58から出エジプト記は「祭儀の折に朗誦される式文」「ドラマとして演じられた一種の祭儀劇」だったのではないか、という北欧祭儀学派のペデルセンの説と、それに関連して古代オリエントの過越祭(ペサハ・魔除け-旅出-収穫祈願の祭り)が紹介されています。また、P.65にいわゆるモーセの十戒のシナイ顕現伝承はこれも古代オリエントの収穫祭が起源の「仮庵(かりいお)の祭で朗誦された祭儀文」なのではないか、という伝承史学派のラートの説も出てきます。うーん、そこまである意味史実性が無いと言い切っていいものなのでしょうか。そして、本書は1976年発行なのですが、もしかしたらこれらは現在では定説となっているのでしょうか。これ以上は何とも言えないです。

少し話しが逸れますが、P.68からの十戒の話は意表をつかれた感じで面白かったです。戒律は本来は禁止命令ではなく断言的形式の律法であり、直訳すると「(略)~はないだろう。あるはずがない」となるそうで、これは背反行為の衝動の抑圧ではなく強い選択意志の表現、とのことです。

この後、砂漠の唯一の神ヤハウェの教えが農耕化に伴いカナン地域のバァル神話の影響で多神教化していきます。本書ではバァル神話が、そしてその原型といわれるギリシャ世界のアドニス神話が詳細に紹介されています。その際、エジプト神話などにも少し触れています。季節のサイクルから着想を得た死と再生の物語は、キリストの復活劇に影響を与えているのではないか、そして、大地母神に対して死と再生を演じたのは男性の穀物神ですが、都市国家の崩壊とともに古代フェニキアのエシュムン神やギリシャ神話のアスクレピオスのような遊行する治癒神なったのではないか、ということが述べられています。なお、本書ではアスクレピオスのことを「素性の知れない神様」と書いていますが、Wikipediaのアスクレピオスの項目には「アポローンとコローニスの子」と記載されていたので、ここは少し気になりました。

次に、なぜ聖書にはイエスによる病気なおしの話が多くあるのか。イエスに先行した洗礼者ヨハネにはそんな話無いのにです。それは、民衆の支持を得た治癒神たちと競合する状況にあったのではないか、という推測から話が進められていきます。イエスの病気なおしの舞台となったガリラヤはユダヤ教とオリエント的-ヘレニズム的宗教とが混淆しており、また治癒神信仰の一拠点でもあるフェニキアの都市シドンと近いところでした。福音書記者マルコは、その当時のガリラヤの状況を強く意識して聖書を記したのではないか……ということが、上記以外の要素も加味して述べられています。

そして、キリスト教が権力の助力も得て宗教的勝利者となり権力を支える背景になると同時に、イエスの治癒神的な側面が今度はイコン崇拝と聖母マリア信仰に移行した、また、聖母マリア信仰にカナンの女神の影響がある、というのが本書の論です。私は、そういう面もあるのかもしれませんが著者ほど強く断定できるか、というともう少し証拠というか根拠とすべき論が欲しいところです。

ただ、「天使とは何か」で述べられていた天使信仰や、あるいは聖人信仰などキリスト教には多神教的要素も案外あると思っています。

(参考) Laudate(ラウダーテ) 聖人カレンダー365日

本書の最後に、最後の晩餐は過越祭と死と再生の物語が合わさったものであること、そして、福音書がW・ヴレーデやJ・ヴェルハウゼン、カール・ルードヴッヒ・シュミット、ルドルフ・ブルトマンの言を引いて、そして例をあげて、いかに編集され、変えられてきているかが語られています。P.191では「マルコ福音書を構成する伝承群は、イエスの受難物語という、ただひとつの例外をのぞいては、個々の独立した断片からなっていた。」とまで言われています。P.205の「明白なことは、伝承を生みだしたのは、イエスに関する歴史的関心ではなく、教団自体の生活に根差した要求であったということである。」というのがこれまでの論のまとめといえます。

それにしても、先の本(「天使とは何か」)で天使になぞらえられたと思えば本書では治癒神と比較させられたりで、つまりイエス・キリストには様々な側面があるわけで、そのこともまた、聖書が編集された……言い換えれば、よく考えてつくられた……ことを示しているのではないか、と思った次第です。
 
 
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今回はこの曲、


「呪い、魔王とメシア」歌は穂歌ソラさんです。
 

 

以下は聖書関連の特集です。

※岡村靖幸のアルバム「靖幸」の5曲目は「聖書(バイブル)」。いい曲。